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2019年5月11日 (土)

源雅国4

 この対立の調停役となったのが、雅国が女院庁運営の中心となっていた忠通の同母姉泰子(高陽院)であった。石見国が忠通の知行国から高陽院分国となったのであれば、一応は忠通の顔も立てることになる。忠通の知行国は石見国から対馬国に遷ったが、二期八年の任期満了が近づいた仁平二年八月二五日に、忠通は家司でもある中山忠親に石見遷任の功として愛染王百体の造仏を行うよう命じている。その結果、同年閏一二月二九日の除目で、石見守源国保と対馬守源季兼との間で相博が行われた。前述のように、忠通の養女中宮呈子が懐妊していると信じられていた時期であったが、予定日の三月を過ぎても出産に至らなかった。
 高陽院が美福門院の第一子叡子内親王を養子にしていた点は鹿子木庄の問題で述べたとおりである。女院は様々な意味で調停者であり、鳥羽院・美福門院と崇德院、忠実・頼長と忠通の関係もなんとか保たれていたが、久寿二年一二月一六日に六二歳で死亡した。この半年前に近衛天皇が死亡して、ダークホースであった雅仁親王が後継の天皇とした即位したいた。女院の死後半年余り後に保元の乱が起こり、頼長と崇德院が失脚した。
 雅国は、忠実・高陽院との関係が中心であったため、一時的には籠居を余儀なくされたが、その後まもなく復帰し、保元三年一二月二〇日実施の二条天皇の即位の最後の儀式でも「左右侍従六人」の中に修理権大夫雅国朝臣がみえる。雅国の国保も前述のように嘉応元年(一一六九)四月一六日に従五位上に叙せられたことが確認できる。国保の母の兄弟師国は系図には東宮亮とあるが、記録では少納言から仁平二年には皇后宮(多子)亮に補任されていることと近衛天皇並びに高陽門院の殿上人であったことが確認できる。更に仁平三年閏一二月二七日には権中納言に補任された頼長の嫡子兼長が皇后宮を訪れた際に、師国が取り次ぎをしているように、皇后宮役人の中心的存在であった。取次は久寿元年八月二一日まで確認できるが、その後の史料は確認できていない。

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