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2019年5月10日 (金)

藤原信頼1

 平治の乱の主役の一人信頼については、元木泰雄氏の最新刊『源頼朝』では以下のように記されている。「信頼は息子信親を清盛の婿に、平泉藤原氏の秀衡を兄基成の婿に迎えて姻戚関係を結び、知行国武蔵・陸奥を通して義朝を従属させていた」と。より具体的に述べた同氏「藤原信頼・成親-平治の乱と鹿ヶ谷事件」(『保元・平治の乱と平氏の栄華』(二〇一四年)、『平清盛と後白河院』(二〇一四)、『河内源氏』(二〇一〇)、さらには信頼の一族について詳細な『保元・平治の乱を読みなおす』(二〇〇四)をも参照しつつ、確認したい。
(補足)途中で原稿作成がストップしたが、その後、古沢直人氏「平治の乱における源義朝謀叛の動機形成 : 勲功章と官爵問題を中心に」「平治の乱における藤原信頼の謀叛 : 再評価と動機形成をめぐって」「平治の乱の要因と12月9日事件の経緯について : 河内祥輔氏の学説検討を手がかりにして」「二条天皇の六波羅行幸をめぐって」(前三本は二〇一三、一本は二〇一八年、いずれも法政大学学術機関リポジトリで公開されている)を読んだ。そこでも元木氏が論文としてではなく、啓蒙書として述べていることでその説の検証が困難だということが述べられている。
 信頼には異母兄が少なくとも二人いた。藤原顕隆の娘を母とする隆教と藤原季孝の娘を母とする基成である。任官の状況からして両者とも信頼より一〇才以上年長であったと考えられる。それは信頼の母が顕隆の孫娘であったことからも推測できる。
 本来の嫡子と思われる隆教は保延五年四月三〇日に鳥羽院が女御得子の安産を祈って石清水など五社に送った奉幣使の一人「祇園 使左兵衛佐従五位上藤原朝臣隆教」としてみえる。「従五位上右兵衛佐」に院近臣基隆の嫡子であった父忠隆が叙任したのが一六才、隆教の死(一一四二年一二月五日)後、嫡子となった信頼が叙任されたのが二〇才である。また、隆教と平忠盛の娘との間に生まれた隆親が陸奥守に補任されたのが仁平三年(一一五三)閏一二月二九日であることを勘案すると、隆教は忠隆が二〇才(一一二一)までに生まれていたと思われる。

 

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