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2019年5月10日 (金)

藤原信頼2

 隆教の母栄子は崇德天皇の乳母であった。基隆・忠隆父子は待賢門院庁の別当である。忠隆が永治元年一二月の近衛天皇の即位時にその母得子の皇后宮亮に補任され、信頼も一二才となった康治三年正月に皇后得子給で叙爵しているが、その間の康治元年七月一二日には、五日の近衛天皇の土御門皇居への行幸に供奉しなかったとして嫡子隆教と藤原忠頼、藤原公重、平家盛が処罰されている。いずれも待賢門院と関係の深い人物で、崇德天皇の退位、母待賢門院の出家の経緯に不満があったと思われる。
 崇德の退位の直後の永治元年一二月には待賢門院の異母弟季成と同母長兄実隆の子公隆が近衛天皇即位後初の神今食に不参であったとの理由で参議と兼任する職を停任されている。その処分が解除された翌年七月に再び事件が起きたのである。他の三人の処分が恐懼で、約二〇日後の八月三日に解除されたのに対し、隆教は三ヶ月を超えた一〇月二二日に還任を認められた。
 元木氏は基成が父の服喪期間を挟んで一〇年あまりも陸奥守であったとするが、久安五年一〇月一六日には某兼忠が陸奥守に見任しており、康治二年の補任後一期四年で退任した後に、久安六年の前半(八月六日に忠隆が死亡)に二度目の陸奥守に補任された可能性が大きい。康治二年の補任も父忠隆が大膳大夫を辞職して、陸奥守藤原師綱と相博する形であった。信頼は、久安四年正月二八日に忠隆が伊予守から大膳大夫に遷任することで土佐守に補任され、同母弟家頼も久安五年一〇月一九日に忠隆が大蔵卿を辞任することで長門守に補任されている。基成の二度目の陸奥守補任が十八歳の甥信頼の影響下にあったとは考えられない。
 信頼の名前からは母方との関係がうかがわれる。祖父顕頼とその嫡子光頼である。同母弟も二人おり、家頼と信説であるが、後者の名前は顕頼の子説頼と関係があろう。ただし、一〇代後半の信頼が一〇才以上も年長である基成に影響力を行使できたかは疑問である。それは武蔵国をめぐる義朝との関係も同様である。せいぜい言えるのは義朝の長子義平が秩父氏と結ぶ叔父義賢を殺害したことを黙認した程度であろう。

 

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