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2019年5月15日 (水)

待賢門院の出家と死亡3

 範隆は元永元年正月二六日に女御璋子が中宮に立后された際に院蔵人から中宮権少進に補任され、璋子の出産に関する雑事では中宮少進日野資光とともに饗の負担を勤めている。次いで元永二年六月一九日には中宮少進範隆が顕仁(崇德)親王家の侍人に補任され、一一月一一日には鳥羽天皇の蔵人に補任されている。
 保安五年正月二二日に和泉守藤原宗兼が近江守に遷任し、その後任に範隆が補任されたと思われる(現任確認は一〇月二一日以降)。同年五月には璋子の第二皇子が誕生しているが、その御産雑事には和泉守範隆が饗の負担を勤めている。そこには「宗兼」もみえるが、角田文衛氏の説くように近江守宗兼であろう。範隆の後任の和泉守源盛季は、中宮(後三条の子で、堀河の中宮となった篤子内親王)大進・淡路守盛長の子で、兄弟盛経は隠岐守、弟盛家は摂津守を務めている。盛経の娘は忠通の側室となり子をなしている。盛家の子盛定も忠通の勾当を務めている。盛季の従兄弟が得子を呪詛したとの疑いで土佐に配流された盛行である。
 待賢門院の出家に伴い、庄園と分国が崇德院と統子内親王に譲られたと思われる。保延五年一〇月二六日に供養が行われた崇德天皇の御願寺成勝寺の造営にも女院庁の関係者と分国が重要な役割を果たしたと思われる。同寺領の初見は永治二年四月三日の近江国伊波庄であるが、近江守は保安五年以降、藤原宗兼(池禅尼と宗長の父)、藤原顕輔(崇德の室聖子の中宮亮)、藤原憲方と待賢門院と関係の深い人物が務めている。次いで、天養二年から女院が死亡した翌年の久安二年にかけて七つの庄園の同寺への寄進と立券が行われている。その寄進者の中で、佐伯智広氏も不明とし、本ブログの以前の記事でも系譜上の位置づけが不明であった「阿闍梨寛季」(丹波国池上寺胡麻御庄を寄進)について、確認ができた。待賢門院の従兄弟(父公実の同母弟仲実の子)である寛季である(本朝傳法灌頂師資相承血脈、『醍醐寺文書之一』(大日本古文書))。寛助弟子勝源(源大納言師忠子)の弟子で「号御料法眼」との注記がある。ただし、「尊卑分脈」には記されていない。

 

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