koewokiku(HPへ)

« 待賢門院の出家と死亡3 | トップページ | 藤原成親2 »

2019年5月15日 (水)

藤原成親1

 鹿ヶ谷の陰謀の首謀者として逮捕され殺害された成親については、これも元木泰雄氏の研究がある。最も詳細な「藤原成親と平氏」(立命館文学六〇五)に基づき確認していく。これは論文であるが、注は参考文献に限定されており、史料の出典は『愚管抄』『平家物語』『山槐記』『公卿補任』『百錬抄』『平治物語』などが本文中に記されているが、詳細なものではない。
 成親は藤原家成の子であるが、少なくとも二人の異母兄があった。高階宗章の娘を母とする隆季と家明である。両者は一才違いであるが、藤原経忠の娘を母とする成親と家明に間には一〇才の差がある。元木氏は経忠が宗章より家格が上だとするが、それは父家成の昇進と関係していよう。長子隆季が誕生した時点で家成は二一才で従五位下加賀守であったが、成親が誕生した三二才の時点では権中納言で公卿となっていた。宗章と経忠はともに白河院の近臣であり、宗章は待賢門院の別当、経忠は鳥羽院の別当であった。経忠の正室は待賢門院の同母姉実子で、鳥羽天皇の乳母であった。成親の父家成の母宗子は堀河天皇の典侍から崇德天皇の乳母となっている。経忠の三男信輔と四男経雅も実子の子であるが、ともに待賢門院別当となっている。
 以上のように、家成の子はいずれも待賢門院との関係が深かった。嫡子隆季は崇德天皇退位の前年(一四才)までに正四位下讃岐守(父家成が知行国主)と順調に昇進していた。一一才の時点ですでに左馬頭となり元木氏がいうように保元の乱後、源義朝が補任されるまで二〇年近く在職した。それが近衛天皇の即位とともに昇進にブレーキがかかる。一般的には父家成は待賢門院から得子(美福門院)に乗り換えたと評価されるが、その昇進が順調だったのは鳥羽院・崇德天皇の体制下である。
 隆季の立場を示す事件が、康治元年七月五日に近衛天皇が土御門皇居に行幸したのに不参加であったことである。その他の不参加者は藤原忠隆の嫡子左兵衛佐隆教、藤原能実の子左近権中将忠頼、西園寺通季の子公重、平忠盛の嫡子家盛(母池禅尼)であり、いずれも待賢門院との関係が深い人々である。隆教を除く四人は恐懼の処分で二〇日ほどで復任したが、隆教は三ヶ月の停任処分であった(本朝世紀)。近衛天皇即位直後の行事不参加に続いて起きた事件であった。この隆季の処分について『公卿補任』では久寿元年三月五日の石清水臨時祭の陪従役の不参勤で一一日に停任となり、五月六日に還任したと記すが、『兵範記』で確認しても、隆季は父家成の兄家長とともに陪従しており、混乱したものであろう。

« 待賢門院の出家と死亡3 | トップページ | 藤原成親2 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 待賢門院の出家と死亡3 | トップページ | 藤原成親2 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ