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2019年5月

2019年5月31日 (金)

一一世紀の隠岐国司2

  承暦五年一二月一六日に受領功課が行われた「隠岐成経」は源成経である以上のことは不明である。応徳元年正月一七日条にみえる「前隠岐守平資季」は同三年一二月一六日には堀河天皇の即位に際して治国により従五位上(下の誤りヵ)に叙されている。またその子宗政が同年一二月八日に蔵人所所衆に補任されている。ただし、康和元年(一〇九九)九月一七日の除目では従五位下平資季が河内守に補任されている。その注記には「六位、任中一」とあり、六位の時点で隠岐守に補任され、その後従五位下に叙され、河内守に補任されたのが正しい。嘉承二年正月一九日の大饗では勧盃を勤めるとともに立作所献雉用の雉を資季が準備している。七月二四日の堀河天皇の葬儀では「厨子所」三人の中にみえる。この資季について野口実氏は系図に記載は無いが、伊勢平氏の一族であろうと推測しているが、根拠はない。野口氏は正盛流の画期を隠岐守退任から若狭守補任の間としているが、これは従うべき見解である。
 康和二年(一一〇〇)一二月に前隠岐守従五位下卜部兼職が永保元年(一〇八一)~応徳元年(一〇八四)分の功過定を受け、それに先立つ永長元年(一〇九六)正月五日には叙爵している。六位で隠岐守に補任され、退任後叙爵したことになる。
 嘉保元年(一〇九四)二月二二日に従五位下橘朝臣為重が隠岐守に補任されているが、その他の史料はなく、系図上の位置づけも不明である。平正盛については前に述べたので省略するが、嘉承元年(一一〇六)に補任されたとする某延行についても不明である。

 

一一世紀の隠岐国司1

 この時期の隠岐国司については、正確な補任時期や系譜上の位置づけが不明確なケースが多い。寛弘六年(一〇〇九)の隠岐守藤原親通と同七年正月から長和三年(一〇一四)正月までの国守藤原実雅の任中の公文勘済が終わっていないことが治安元年(一〇二一)九月一〇日の隠岐守時重奏状により訴えられている。新制により得替後二年以内に勘済が定められていた。この人物は長元四年(一〇三一)六月二四日に下総守に補任された藤原時重と同一人物であろう。
 次いで同年一月二五日に「解由抑留事」が問題となっている隠岐守源道成は盛明親王孫で私家集『道成集』を残している。経歴を追うと、寛弘六年一二月二一日には東宮少進であった。同七年三月八日から長和二年(一〇一三)一月二九日まで若狭守に現任している。次いで翌三年三月二八日には右馬権頭とみえ、一二月二五日には「前若狭守道成」と呼ばれている。さらに寛仁元年(一〇一七)一〇月七日から同三年正月一四日までは信濃守に現任している。治安三年(一〇二三)六月二三日には「前信濃守道成」が因幡守に補任され、万寿二年(一〇二五)一一月一〇日での現任が確認できる。隠岐は小国で守は叙爵前でも補任可能であるが、信濃守退任後、異例な形で隠岐守に補任されたと考えられる。生年は不詳だが、長元九年(一〇三六)に没したとされる。極位は正四位下であった。
 道成の娘は日野実綱(一〇一二~一〇八二)との間に有綱、有信、有定らを産んでいる。実綱の異母弟実政が日野氏惣領であったが、大宰大弐在任中に宇佐八幡宮との紛争で御輿を毀損したと訴えられ、流罪となると、有信が惣領となった。
 承暦四年(一〇八〇)八月二日に大宰府が訴えた「前隠岐守平兼基」は、応徳三年(一〇八六)の譲位に伴い蔵人所衆に補任された三人の一人「平兼基」と同一人物であろう。

二つの補足

 「一二世紀後半以降の石見国司」の記事で、富永恵美子氏が説かれた、養和元年(一一八一)一一月二日の時点で石見国が皇嘉門院の分国との説を採用しなかった。三日後の五日の『吉記」の記事では「石見守能頼」(一一七八年八月二四日以降現任が確認できる)がみえており、その結論は変わらないが、「作事石見、大進季広奉行之」として石見と大進を切り離した解釈には無理があった。
 偶々、二通の仁安三年一一月三〇日源実房をみて(『愚昧記』)、気づいた。一通は「亜丞」と署名し、宛名は「石見大進」である。もう一通では「実房」と署名し、宛名は「中宮大進」である。ともに法成寺八講に関するものであるが、後者は中宮(育子)大進藤原光長に充てたものである。これに対して前者は皇太后権大進であった季広に充てたものであろう。「石見」大進とは、季広の父季兼が石見守を務めたことがあることによるものであろう。『吉記』の石見大進(季広)も同様な表記であろう。
 季広は久寿二年一二月二五日に中宮(呈子)少進に補任された。同日には藤原邦綱が中宮権大進に補任されている。次いで松殿基房が保元元年八月二九日に元服すると、その職事となり。基房の子家房の乳母父となった。治承三年一〇月二五日には従三位、権中納言、正三位とあいついで叙位・補任された基房の嫡子師家が拝賀を行っているが、隠岐守藤原惟頼とともに前駈をつとめている。
 藤原惟頼は仁安元年八月二七日に初任の受領として丹波守に補任されているが、その除目の記録(『山槐記除目部類』)には「此所欲書伯耆、摂政被仰可書丹波之由、殊御芳志也」との注記がある。当初の案では惟頼は伯耆守に補任される予定であったが、摂政基房の芳志により丹波守に変更された。当然、基房が丹波国知行国主である。五味文彦氏が『顕広王記』に基づき、丹波守惟頼と相模守藤原盛頼の間で相博が行われたとし、惟頼は知行国主藤原顕時のもとで丹波守となり、その後相模守に遷任したとされたが、惟頼は相模守になっておらず、顕時との関係も確認できない。前述の師家拝賀の前駈を惟頼が勤めていることなからも、惟頼は基房の家臣であった。五味氏が指摘された仁平元年二月の近江と淡路の相博も、近江守源成雅から淡路守平教盛と国主忠実のもとの国守は変わっている。丹波と相模の相博も国主レベルであろう。
 忠通が基実ではなく基房を後継者と考えていたとの樋口氏の説もあるが、平氏のクーデタで失脚し、その後、一時的に源義仲と結んで表舞台に帰り咲いたかにみえたが、義仲の失脚により、松殿家は摂関家の一翼を担う地位から脱落した。惟頼は季広とその子長俊とともに、養和元年には九条兼実の家司となった。

2019年5月21日 (火)

高階敦政の投身自殺2

 話を敦政に戻すと、白河院政期の大治元年二月二四日に敦政が上野守に補任されている。『長秋記』には大治五年の「前年」のことして記されているが、関係者である侍従中納言は藤原実隆(閑院流公実の子、待賢門院の異母兄で、鳥羽院の従兄弟)しか該当者がなく、実隆は大治二年一〇月一六日に死亡しており、大治元年か二年の事件であろう。具体的には実隆から上野国の所領について国司の免判を求める申請が出されたが、敦政は顕盛を通じて白河院に働きかけ、庄園を停廃してしまった。実隆は女房である妹を通じて鳥羽院に働きかけていたため、鳥羽院からすれば怒り心頭であったと思われる。妹とは藤原家政の妻となっていた女性と思われ、彼女の娘は鳥羽院三条局と呼ばれ、院との間に妍子内親王を生んでいる。
 白河院(本院)と鳥羽院(新院)の対立が表面化しかかった事件としては、大治四年正月の除目で白河が鳥羽の諒解を得ないままに、藤原成通(宗通の子で伊通の同母弟)を従三位に叙そうとした事があった。やはり白河が主導した二件の人事案とともに、待賢門院が白河に苦言を呈し、成通の案件は撤回された。
 敦政は白河院の寵臣藤原長実の嫡子顕盛と結び、その死後は鳥羽院の寵臣藤原家成の異母兄家長と関係を有したのであろう。家長も度々鳥羽院庁下文の署判者としてみえるが、家成とは違い受領を歴任していた。佐伯智広氏は家成以外の兄弟は崇德に近侍していたと述べたが、状況は単純では無く、家長が後白河方となっても不思議では無かった。この家長と家成の不仲が、敦政が陵辱される直接の原因となったが、過去を遡ると、鳥羽院にとって敦政は許すべからざる存在であった。偶然二点の史料が結びついたので、まとめてみた。

 

高階敦政の投身自殺1

 『本朝世紀』仁平三年一二月二九日条によると、先頃前上野守高階敦政法師が近江国へ向かい湖で投身自殺をしたが、その原因となったのは中納言家成が馬寮馬部を敦政の家に派遣して陵辱したことであった。家成の嫡子隆季は保延三年正月以降、左馬頭の地位にあった。さらに、それは家成が舎兄家長と仲が悪かったためであると記している。家成といえば、父家保が同母兄顕保に修理大夫を譲ろうとしたことに反対したことで知られている。本来は顕保が家保の嫡子であった。家保は天承元年一二月二四日に修理大夫に補任され、翌年正月二六日に従三位に叙せられ、長承三年二月二二日に参議に補任された。修理大夫を顕保に譲ろうとしたのはこの時点であろう。しかしそれができないまま、保延二年正月二二日に参議を辞して、外孫花山院忠雅の右近衛権少将補任を実現し、同年八月一四日に五七才で死亡している。忠雅は家保の娘を母としたが、父忠宗を早くに失ったため、家成の家で生活をしていた。
 敦政法師が陵辱された理由が不明であったが、その背後には鳥羽院の意向があったと思われる。『長秋記』大治五年四月二六日条には長実の嫡子顕盛が解官された理由が記されていた。当時顕盛は尾張守であったが、解官されたのは殿上人であろうか。『中右記』同年一〇月五日条によると陪従を辞したことで解官されたことが記されている。『長秋記』には行幸の陪従に闕が生じたので、顕盛と忠隆を起用したところ、顕盛が辞退したことが記されている。この解官は、六月二〇日に顕盛が修理大夫に補任されたことで、解決をみたかにみえたが、一〇月五日には修理大夫に忠隆の父基隆が補任されている。尾張守については一時的に解任されたかどうかは不明であるが、天承元年七月九日には尾張守であることが確認され、長承三年一月二五日に死亡した際にも「尾張守顕盛朝臣」であった。解任の原因となった陪従辞退については、大治五年一一月五日には鳥羽院の日吉行幸の帰京の陪従として顕盛がみえている。

 

2019年5月19日 (日)

気になる考え方2

 話を戻すと、角田文衛氏『王朝の明暗』を古本(新品同様)で購入し、「源頼朝の母」以下の論考を見たが、裏付けなき想像がかなりなされている。季範については「蔵人所雑色を振りだしに、その後どういう官途を辿ったかは定かではない。恐らく彼は、生涯の大部分を下級官人として過ごし、晩年は熱田に隠退したのではないかと想定されるが、これについては拠るべき史料が見い出されない」と述べてあった。それが『待賢門院璋子の生涯』(選書版、1985)では「本職は受領であったようである」として注では「久寿二年二月、周防守に任官」と述べたが、それは全く別人の源季範の記事を誤読したものであった。角田氏は「微証するに足る史料は欠いているけれども、季範の妻-源行遠の娘-も待賢門院の女房であった可能性が高い」としているが、角田氏も認めているように系図では行遠(頼信の子頼任の孫)の関係者で待賢門院と関係のあった人は一人も記されていない。
 角田氏「崇德院兵衛佐」では『吾妻鏡』で頼朝が「親類」の故をもって彼女に厚意を示している点から勘按すると「彼女の母は熱田宮司・藤原季範の姉妹であった可能性が高い」と述べるだけでなく、「源頼朝と兵衛佐との関係(想定)」とする参考系図を作成・掲載している。これも杉橋氏と同様の手法である。この手法を使うと、頼朝が「御外戚」だとして対馬国からの上洛を家臣にサポートさせた日野親光の母はどうなるのであろうか。系図では母は不明である(後述の阿波との間の子俊光がいるが、親光は異母弟と思われる)。
 頼朝が「親類」「外戚」と呼んでいるのはこの二人のみであるが、共通するのは崇德院の関係者であることである。親光の父日野資憲は崇德院庁の別当として、訪問者の取り次ぎの大半を務めており、側近中の側近であった。さらに言えば、頼朝の祖父為義の母は日野有綱の娘であった。有綱と資憲の祖父有信、さらには資憲の母方の祖父有定は兄弟であった。資憲の父実光の姉妹が藤原宗長の母であり、系図に池禅尼の母の記載はないが、宗長は禅尼の同母弟であった可能性が高い。さらには資憲の妻待賢門院阿波(後に崇德院女房をへて、後白河院勾当に)の父資光も実光の同母弟であった。以上の点から、頼朝は崇德院との間に子をなした兵衛佐局を「親戚」と呼び、資憲の子親光を「御外戚」と呼んだと考えられる。

 

気になる考え方1

 「信仰」ではなく論証が必要なことを述べた。これに関して気になる点をあげたい。牧宗親=池禅尼の弟説は、大岡牧にかかわる人々の動きから生まれた。牧氏が在地の武士であったとの通説に対し、それでは説明できない点があるとして生まれた(武士に対する誤った理解が問題なのだが)。裏付けは皆無といってよいのだが、「100%成り立たないのでなければ信じたい」という信仰であった。
 系図研究者宝賀寿男氏の「杉橋隆夫氏の論考『牧の方の出身と政治的位置』を読む」に対して、小林滋氏が次のように述べている。
「杉橋氏は、史料批判を十分したり正統的な論理を追求したりすることよりもむしろ、牧の方という日本史上でも極めて特異な女性の行動を説明しようとの強い問題意識を持ち、ある事柄がそれを説明する要因として説得力を十分持っているのであれば、その事柄が成立する可能性がたとえ低くともマッタクのゼロでないのであれば、歴史的事実として採用してしまおうというような姿勢を取っていると考えられます。」
 杉橋氏個人が以上のような説を述べるのは自由だが、まさにそれは信仰にすぎないのであり、問題なのはその信者となっている研究者が少なからずいることである。ブログの記主からすれば、それだけで研究者として失格と考えるにもかかわらず。研究者の層が薄くなっているのがその背景としてあろう。
 ブログでは国立公文書館の職員を紹介したことがある。再度掲載すると、日本47名に対して、アメリカ2720名、イギリス600名、フランス570名、ドイツ790名、韓国340名であった(二〇一四年五月作成)。公文書館では歴史資料も扱うが、現在の資料への対処が中心である。歴史資料は史料編纂所が扱っているが、こちらも教員数は55名(その他に事務職、技官がいる)でしかない。『大日本史料』などを刊行しているが、あと百年たっても完成していないであろう。

2019年5月18日 (土)

藤原国通について2

 泰通の母は源師頼の娘であるが、その姉妹には藤原顕能の妻となり、待賢門院の第二皇子通仁親王の乳母となった大炊殿や崇德天皇の中宮聖子の女房となった頼子がいた。以上のように、国通の父泰通と祖父為通が待賢門院、崇德院と深い関係にあったことがわかる。建保七年一月二七日の将軍実朝の右大臣拝賀の儀式に、朝廷から派遣された実朝の妻の兄坊門忠信ら公卿五人と殿上人一〇人が参列しているが、すべて幕府や将軍と深い縁を持った人々であった。その公卿の一人として四四才の国通がみえていた。その時点で牧の方の娘と再婚していたかどうかは不明であるが、幕府との関係が深い人物である。
 牧の方の父が池禅尼の兄弟であることは、その娘の再婚相手が国通であったことの十分条件ではないのである。杉橋隆夫氏が中心となって作成された『兵範記』人名索引では、1)保安元年正月六日条、2)保延二年一二月二一日条、3)同四年正月一五日条が同一人物である藤原宗親のものとされているが、2)のみが池禅尼の弟宗親のもので、1)と3)は藤原宗能の子宗親に関するものである。その成立する可能性が0%でなければ信じたいというのは学問ではなく、信仰でしかない。信仰のスタートは十分な根拠もなく牧の方の父宗親を池禅尼の弟宗親に比定した赤松俊秀氏(四〇年前に七二才で死亡)である。牧氏が武士か貴族かが問題ではなく、平頼盛領である大岡牧に派遣された頼盛の家臣を含む関係者が牧氏であった。ただし、頼盛領になる以前から大岡牧と関わりを持っていたであろう。

 

藤原国通について1

 北条時政と牧の方の間に生まれ、平賀朝雅と結婚した女性は、夫が討たれた後に藤原国通と再婚している。この相手国通について確認する。
 国通は貞永元年八月二六日に五七才で出家し、正元元年四月に八四才で死亡しており、治承元年(一一七六)の生まれであり、牧の方の娘が頼朝の挙兵後に生まれたとした以前の推定と矛盾しない。その姉妹は滋野井実宣(一一七七年生)と結婚しているが、これらを結びつけたのは実宣の祖父実国の養子となった公佐であろう。実国と藤原家成の娘の間に生まれたのが、実宣の父公時であった。公佐は家成の子成親の子であり、公佐は公時の母方の従兄弟であった。また、実宣の母は吉田経房の娘である。国通の母は不明だが、藤原隆季(家成子)の娘を母とする兄経通とは同年齢であり、異母兄弟であった。
 これに対して国通の父泰通は為通の子であったが、父が仁平四年(一一五四)六月一三日に四三才で死亡した時点で八才であり、祖父伊通の同母弟成通の養子となった。なお、成通は源行宗の子有通も養子にしている。行宗の養女が崇德天皇との間に重仁親王を産んだ兵衛佐局である。行宗は康治二年(一一四四)一二月二四日に八一才で死亡しており、有通もまた晩年の子であったろう。
その時点で二〇才前半であったと思われる養女兵衛佐局も、行宗の死後は、保元の乱で崇德方として破れ出家した藤原教長の養女となっている。
 為通は世尊寺流第四代当主藤原定実の娘を母とするが、母の姉妹には待賢門院女房中納言がいた。その姉妹の兄弟である第五代当主定信の母は源基綱の娘で、その姉妹が源行宗の妻となっている。基綱はその琵琶の芸を娘婿高階為遠の娘を養女として伝え、その娘は待賢門院女房となり尾張と呼ばれた。


 

2019年5月16日 (木)

三条公教4

 いずれにせよ、得子が体仁親王を産んだ時点で乳母の選定が行われたものである。当然、相当数の乳母が選ばれており、これによって清隆が待賢門院から得子に乗り換えたとの評価は正しくない。清隆の妻を選んだ側は、清隆を永治二年一二月に春宮亮の賞として蔵人頭に補任し、年が明けると正四位下から二階進めて正三位に叙した。
 三条公教の娘が信西入道の子俊憲との間に産んだ子基明が仁安三年(一一六八)二月七日に秀才対策を受け、一二月一三日に六位蔵人に補任されている。叙爵していないことから一〇才前後と考えられ、両家の間で婚姻関係が結ばれたのは保元の乱後であろう。基明の子範宗は一一七一年の生まれで、寿永二年(一一八三)八月二〇日に一三才で蔵人に補任され、一六日に叙爵している。
 公教には実綱と実国の二人の息子がいたが、四五才時に藤原清隆の娘との間に実房が生まれると、これが嫡子とされた。一四才で従三位蔵人頭=公卿となったが、庶兄実国が公卿となったのは二〇才、実房より八才年上の徳大寺実行が公卿となったのは一八才であった。三条家の初代実行とその子公教は待賢門院の同母兄弟である西園寺、徳大寺氏に比して昇進が遅く、正四位下蔵人頭となったのは二九才であったが、その後、鳥羽院、さらには美福門院との関係を強めたことで登用され、近衛天皇の死亡に伴う会議には閑院流で唯一参加した。そして公教の嫡子実房は西園寺・徳大寺両家の当主より昇進のスピードを早め、三家の力関係は逆転した。 

三条公教3

 公教は近衛天皇の死亡に伴う後継者の決定に、雅定とともに参加している。元木氏は公教は閑院流だが、美福門院や信西と姻戚関係にある人物で、雅定とともに美福門院系の人物だとするが、もうすこし正確な分析が求められる。公教の当初の正室は藤原憲方(為隆子)の娘であったと思われるが、その間に産まれた子については不明である。それが、近衛天皇即位後の久安元年(一一四五)に藤原清隆の娘との間に娘が、その二年後には実房が誕生している。
 清隆は元永元年に璋子の中宮権大進に起用され、権少進となった六才下の同母弟範隆とともに、皇子出産の儀式で重要な役割を果たしていたが、保安二年四月五日には前任者藤原尹通に代わって大進となり、天治元年一一月二四日には院号宣下に伴い、待賢門院別当となった。次いで白河院の死亡直後の大治四年八月一六日に、藤原忠隆の子隆教とともに鳥羽院政下の待賢門院別当に再度補任された。弟の範隆は女院分国である甲斐国の国守であった長承二年八月二七日に三七才で死亡している。
 清隆の妻藤原家政の娘家子が近衛天皇の乳母であったことを記す『尊卑分脈』に対して、『公卿補任』では鳥羽天皇の乳母であったとする。家子が清隆の間に嫡子となる光隆を産んだのは大治二年である。この少し前に両者の婚姻が結ばれたと考えられるので、『尊卑分脈』の記述を正しいとすべきである。

三条公教2

 左大将問題で、鳥羽院が雅定を推したのに対して、崇德天皇は閑院流との関係で決定を延ばしていたとされる。三条実行と徳大寺実能がともに希望していたのである。三者ともに正二位権大納言であったが、年長の実行はその地位となって九年目、一四才若い雅定は四年目、さらに二才若い実能は五年目であった。実能は二年前にすでに右大将となっており、当然、自分が左大将に転ずるべきと思っていたと思われる。
 雅定には村上源氏の代表との自負があろう。堀河・鳥羽殷の外戚となって台頭してきた閑院流に対して、村上源氏は後三条天皇以来、政治の中枢にあった。雅定は正二位右大臣兼左大将雅実の子であるが、一三才上の異母兄顕通が本来の後継者で、四一才で正二位大納言に進んだが、その直後に死亡した。このため、顕通の遺児は雅定の養子となり、雅定が村上源氏の代表者となった。兄顕通は三条実行より一才年下であるが、その昇進のスピードは段違いに早かった。閑院流の後継者西園寺通季は三九才で正三位権中納言のまま死亡したが、顕通が正三位権中納言となったのは二五才である。
 崇德天皇が迷う十分な理由はあったが、鳥羽院は天皇に直談判して雅定を左大将に補任した。これが崇德退位のきっかけとなったとするが、一番失望したのは三条実行であろう。自らの嫡子公教と実能の嫡子公能の昇任のスピードにも明らかに差があった。公教が三一才で参議となったのに対して、公能は二四才で参議となっている。違いは璋子の同母兄であるか異母兄であるかであった。『台記』によれば、実行は待賢門院の死後も喪服となることがなく、鳥羽院が実行を不忠の臣と批判したことを告げられて初めて喪に服している。同じ閑院流でも温度差があった。

三条公教1

 三条氏は閑院流藤原公実の二男実行を祖とする。一才年長の兄実隆とともに藤原基貞の娘が母であった。これに対して、三男通季、五男実能(四男は母が異なり僧侶となる)、並びに待賢門院璋子の母は堀河・鳥羽両天皇の乳母で従二位に叙せられた藤原光子であった。光子の兄為房を祖とするのが勧修寺流であり、為房の子達の出世の背景には光子の存在が大きかった。
 長子実隆は白河院政末期の大治二年(一一二七)に四九才で死亡した。その時点では兄弟では唯一の正三位中納言であった。翌年には公実の嫡子とされた正三位権中納言通季が三九才で死亡した。そうした中、一六才違いの三条実行と異母弟徳大寺実能の関係が問題となる。
 永久五年(一一一七)に璋子が女御として入内した際の家司に兄弟の中で補任されたのは従四位下右少将であった二二才の実能のみであった。翌元永元年に璋子の中宮職の職員としては、権大夫に通季、権亮に実能が補任され、同二年に誕生した顕仁親王家の職員としては実能のみみえる。一方、保安元年(一一二〇)六月の白河院庁牒に別当として署判しているのは、権中納言であった長子実隆と参議であった通季である。
 これが実隆と通季の死亡により、待賢門院庁牒(大治三年一二月)と鳥羽院庁下文(大治四年一一月)の署判者として三条実行が登場してくる。実行と実能はともに権中納言であったが、一六才の年齢差と位階の差(正三位と従三位)があるので、閑院流関係者の筆頭の位置に実行が署判している。そして鳥羽院庁下文で実行と実能の間に署判しているのが権中納言源雅定である。この順番は三者が頼長が辞職して空席となった左大将の座をめぐって争う保延六年でも変わらなかった。

藤原成親3

成親妹と重盛との婚姻について、『平治物語』は平治の乱以前のものとして、重盛が助命を請うたことを記すが、『愚管抄』ではそれほど関与が深くなかったとして罪が軽かったとする。名前(経子)からして、藤原経忠の娘の子=成親の同母妹であろうが、重盛との間の長子清経が生まれたのは長寛元年であり、婚姻は乱後であった可能性が高い。平治の乱で解官された成親はその時点で二二才であり、経子は三三才で従三位左京大夫であった家成の嫡子である異母兄隆季の保護下にあったのではないか。重盛は成親と同年齢で、乱の時点では正五位下左衛門佐兼遠江守であった。三年前(保元の乱)の時点では従五位下中務少輔でしかなかったが、乱後の恩賞で昇進のスピードがアップしている。元木氏が説く平治の乱以前に成親主導で経子と重盛との婚姻が成立したとの説には根拠がない。
 保元の乱以前は昇進にブレーキがかかっていた隆季も平治の乱の二年後に正三位参議となったように、昇進がスピードアップする。隆季の嫡子で藤原忠隆の娘(年齢からすると信頼の異母姉であろう)を母とする隆房と、清盛の娘との間に生まれた隆衡の誕生は承安二年(一一七二)であるが、その年の二月に清盛の娘徳子が立后され(入内は前年一二月)、隆季が中宮大夫に補任されている。このように隆季は清盛との関係を強めていたが、成親は同年には院御所三条殿の造営を行い従二位に叙され、複数の知行国を認められる等、後白河院との関係を強めていた。
 そして清盛と後白河院の間の最大の対立点となっていたのが、比叡山による強訴への対応であった。強気の対応を求める後白河院に対して、清盛は比叡山との関係を重視し柔軟な対応を模索していた。その一方で、後白河院と清盛をつなぐ役割を果たしていた建春門院(滋子、清盛の妻時子の異母妹)が安元二年七月に死亡したことで、人事面の対立も強まった。承安五年には平氏に近い藤原邦綱を抑えて成親が権大納言に補任され、安元二年一二月には清盛の子知盛を抑えて後白河院の近臣藤原光能が蔵人頭に補任された。ただし、前に述べたように、光能は本来後白河院との関係は弱かったが、その能力を認められ起用されたものである。以上、補足をしたが、ここでも元木氏の事実認定には問題があることが明らかになった。

2019年5月15日 (水)

藤原成親2

 隆季の一才下の同母弟家明は、崇德天皇の末に一四才で従五位上左少将になったが、それ以降は得子の子暲子内親王(八条院)御給で叙位されているが、昇進のスピードはそれほど早くはない。これに対して同母弟成親の場合は、蔵人に補任され叙爵した五才時に崇德天皇の退位となった。仁平二年正月には父家成が左衛門督を辞して成親が侍従に補任されたことについて、元木氏は父の寵愛を示唆するものと記すが、そうでもしなければ中央のポストに補任されなかったことが重要であろう。
 成親の昇進が加速するのは保元の乱後であるが、父家成はすでに死亡しており、後白河天皇とその寵愛を受ける藤原信頼との関係を深めたのであろう。保元四年正月には信頼の譲りによって殿上人として最上位となる正四位下に二二才で叙せられたが、平治の乱との関わりにより一旦、解官された。二年後に還任した直後に再び解官されたが、五年後に還任すると後白河院の寵愛のもと例のないスピードで昇進している。その前年に二条天皇が死亡したことがそれを可能としたものであろう。元木氏は成親が蔵人頭と参議に補任されたことはその優れた実務能力を示すとされるが、これに対しては、信頼への同様の評価に対して、古沢氏が実際に在職したのは短期間であったとして元木氏を批判しているのと同様のことが言えよう。成親は蔵人頭には二ヶ月、参議にも六ヶ月在職したのみで権中納言に進んでいる。
 成親など平治の乱で信頼とともにクーデターに参加した公家は、保元の乱後急速に要職に補任され昇進する信西とその子達を除こうとしたが、平治の乱後急速に要職を占めたのは平清盛とその一門であった。その不満を利用したのが後白河院であった。とりあえずはここまでとするが、元木氏の分析にはここでも偏りがみられ、もう少し幅広い情報に基づき分析する必要があると痛切に感じた。

藤原成親1

 鹿ヶ谷の陰謀の首謀者として逮捕され殺害された成親については、これも元木泰雄氏の研究がある。最も詳細な「藤原成親と平氏」(立命館文学六〇五)に基づき確認していく。これは論文であるが、注は参考文献に限定されており、史料の出典は『愚管抄』『平家物語』『山槐記』『公卿補任』『百錬抄』『平治物語』などが本文中に記されているが、詳細なものではない。
 成親は藤原家成の子であるが、少なくとも二人の異母兄があった。高階宗章の娘を母とする隆季と家明である。両者は一才違いであるが、藤原経忠の娘を母とする成親と家明に間には一〇才の差がある。元木氏は経忠が宗章より家格が上だとするが、それは父家成の昇進と関係していよう。長子隆季が誕生した時点で家成は二一才で従五位下加賀守であったが、成親が誕生した三二才の時点では権中納言で公卿となっていた。宗章と経忠はともに白河院の近臣であり、宗章は待賢門院の別当、経忠は鳥羽院の別当であった。経忠の正室は待賢門院の同母姉実子で、鳥羽天皇の乳母であった。成親の父家成の母宗子は堀河天皇の典侍から崇德天皇の乳母となっている。経忠の三男信輔と四男経雅も実子の子であるが、ともに待賢門院別当となっている。
 以上のように、家成の子はいずれも待賢門院との関係が深かった。嫡子隆季は崇德天皇退位の前年(一四才)までに正四位下讃岐守(父家成が知行国主)と順調に昇進していた。一一才の時点ですでに左馬頭となり元木氏がいうように保元の乱後、源義朝が補任されるまで二〇年近く在職した。それが近衛天皇の即位とともに昇進にブレーキがかかる。一般的には父家成は待賢門院から得子(美福門院)に乗り換えたと評価されるが、その昇進が順調だったのは鳥羽院・崇德天皇の体制下である。
 隆季の立場を示す事件が、康治元年七月五日に近衛天皇が土御門皇居に行幸したのに不参加であったことである。その他の不参加者は藤原忠隆の嫡子左兵衛佐隆教、藤原能実の子左近権中将忠頼、西園寺通季の子公重、平忠盛の嫡子家盛(母池禅尼)であり、いずれも待賢門院との関係が深い人々である。隆教を除く四人は恐懼の処分で二〇日ほどで復任したが、隆教は三ヶ月の停任処分であった(本朝世紀)。近衛天皇即位直後の行事不参加に続いて起きた事件であった。この隆季の処分について『公卿補任』では久寿元年三月五日の石清水臨時祭の陪従役の不参勤で一一日に停任となり、五月六日に還任したと記すが、『兵範記』で確認しても、隆季は父家成の兄家長とともに陪従しており、混乱したものであろう。

待賢門院の出家と死亡3

 範隆は元永元年正月二六日に女御璋子が中宮に立后された際に院蔵人から中宮権少進に補任され、璋子の出産に関する雑事では中宮少進日野資光とともに饗の負担を勤めている。次いで元永二年六月一九日には中宮少進範隆が顕仁(崇德)親王家の侍人に補任され、一一月一一日には鳥羽天皇の蔵人に補任されている。
 保安五年正月二二日に和泉守藤原宗兼が近江守に遷任し、その後任に範隆が補任されたと思われる(現任確認は一〇月二一日以降)。同年五月には璋子の第二皇子が誕生しているが、その御産雑事には和泉守範隆が饗の負担を勤めている。そこには「宗兼」もみえるが、角田文衛氏の説くように近江守宗兼であろう。範隆の後任の和泉守源盛季は、中宮(後三条の子で、堀河の中宮となった篤子内親王)大進・淡路守盛長の子で、兄弟盛経は隠岐守、弟盛家は摂津守を務めている。盛経の娘は忠通の側室となり子をなしている。盛家の子盛定も忠通の勾当を務めている。盛季の従兄弟が得子を呪詛したとの疑いで土佐に配流された盛行である。
 待賢門院の出家に伴い、庄園と分国が崇德院と統子内親王に譲られたと思われる。保延五年一〇月二六日に供養が行われた崇德天皇の御願寺成勝寺の造営にも女院庁の関係者と分国が重要な役割を果たしたと思われる。同寺領の初見は永治二年四月三日の近江国伊波庄であるが、近江守は保安五年以降、藤原宗兼(池禅尼と宗長の父)、藤原顕輔(崇德の室聖子の中宮亮)、藤原憲方と待賢門院と関係の深い人物が務めている。次いで、天養二年から女院が死亡した翌年の久安二年にかけて七つの庄園の同寺への寄進と立券が行われている。その寄進者の中で、佐伯智広氏も不明とし、本ブログの以前の記事でも系譜上の位置づけが不明であった「阿闍梨寛季」(丹波国池上寺胡麻御庄を寄進)について、確認ができた。待賢門院の従兄弟(父公実の同母弟仲実の子)である寛季である(本朝傳法灌頂師資相承血脈、『醍醐寺文書之一』(大日本古文書))。寛助弟子勝源(源大納言師忠子)の弟子で「号御料法眼」との注記がある。ただし、「尊卑分脈」には記されていない。

 

待賢門院の出家と死亡2

 正月二三日には藤原顕遠が甲斐守に補任されていることも注目される。顕遠は顕隆の同母弟長隆の子で、後に顕時と改名した。父長隆が因幡守在任中の天永二年(一一一一)五月二八日に二九才で死亡した際に顕遠は二才であった。天承元年(一一三一)正月四日に二一才で鳥羽院蔵人に補任されるとともに、鳥羽院北面となった。長承三年三月には高陽院泰子の皇后右宮少進に補任されているが、この時点では叙爵していたが、父の早世もあった昇進は遅い。
 永治元年一二月七日には近衛天皇が即位したことにより、女御得子が皇后になった。甲斐守補任後の康治二年四月三日には皇后得子が白河押小路御所に渡御しているが、供奉した中に権大進顕遠がみえ、従兄弟の惟方とともに皇后宮の役人になっている。久安五年八月三日に得子が院号宣下により美福門院となると、顕遠は判官代となるが、それに先立つ七月二九日には鳥羽院判官代であったことが確認でき、それ以降も鳥羽院に慶賀に訪れる人々に対して顕遠が取り次ぎを行っている。久安六年正月一日に公卿等が挨拶に訪れた際には顕遠が両院判官代として取り次いでいる。
 顕遠に対して前甲斐守であった源宗賢は待賢門院の出家とともに遁世しており、得子呪詛問題の影響で甲斐守が宗賢から顕遠に交替したと考えられる。宗賢の前任の甲斐守は藤原清隆の同母弟(六才下)で中宮(璋子)少進範隆であった。範隆の甲斐守補任が大治三年正月二四日で、和泉守からの遷任であることを勘案すると、範隆・宗賢時代の甲斐国は待賢門院分国であった可能性が高い。

待賢門院の出家と死亡1

 待賢門院は永治二年(一一四二)二月二六日に出家したが、その原因となったのは一月に源盛行・津守島子夫妻が皇后得子を呪詛したとして土佐国に配流されたことであった(それに関する動きは前年からあったであろう)。両人は待賢門院に祗候しており、後に編纂された『百錬抄』には女院の仰せを奉りと記している(『台記』にも側聞を記すのみとして同様の趣旨が記されている)が、果たして事実であろうか。
 盛行は、蔵人・検非違使と上総・伊豆守を歴任する一方で摂関家職事としても活動していた源盛雅の子であるが、永久四年一月二八日には早くも子盛賢に正六位上左馬允を譲ることを申し出ている。盛行もまた天永三年二月一九日には忠実・忠通父子の前駈をした摂関家家司の一人としてみえる。その後、蔵人所雑色をへて元永元年正月二八日には新蔵人としての業務に従事している。保安元年正月二八日の除目では左兵衛尉に補任され、翌年正月二四日には検非違使となっている。この時期、父盛雅とともに璋子の出産に関する行事でも五位としての役を勤め、白河院の葬儀でも炬火を勤めた十二人の一人としてみえる。系図では待賢門院判官代と記され、従五位上まで昇進していた。事件一〇年後の仁平年三月五日に「散位従五位上盛行卒」とのみ記されている(本朝世紀)。
 治承・寿永の乱時の石見守藤原能頼は重方の子であるが、姉妹の夫葉室光雅が知行国主であった。能頼の母は前帯刀源盛賢の娘(上西門院官女)であったが、この盛賢が盛行の子と同一人物であろう。盛行夫妻は待賢門院に祗候し、その孫娘も上西門院に仕えていた。この点からすると夫妻による呪詛は皇后宮得子サイドからのでっち上げであり、後に許されたことが推測できる。
 女院の出家が院分国に与えた影響をみると、女院の侍卜部兼仲が和泉守であったが、呪詛事件の直後の永治二年正月二三日には蔵人日野光盛が和泉守に補任されている。光盛は実光の子で、資憲の異母弟、資長の同母弟である。康治二年一一月には父実光が中納言を辞任して光盛の和泉守重任を実現しようとしている。実光(摂関家家司でもあった)が知行国主であった。久安三年に藤原忠実七〇賀が開かれた際に、他の摂関家知行国(忠実分=近江・安芸・石見、忠通=伊賀・備前)とともに和泉国が務めているのは実光・光盛父子が摂関家家司であったためである。

2019年5月12日 (日)

隠岐国知行国主源光保

 光保は摂津源氏頼光流に属する美濃源氏光国の子であるが、その娘が鳥羽院の寵愛を受けたことで、中央での地位を上昇させた。久寿元年正月二三日に出雲守に補任されるが、保元三年四月二日には平範家の子基親が出雲守に、光保の嫡子光宗が伯耆守に補任されている。光保は出雲守を辞して子を伯耆守にすることにより、伯耆国知行国主の地位を得たと思われる。
 系図では光宗について伯耆守とともに備後守であったことを記すものがある。また、平治物語の諸本の中には、平治元年一二月に藤原信頼と源義朝を中心とするクーデターが成功した際に、光保が隠岐国を与えられたことを記しているものがある。この点を整合的に解釈したい。
 備後守については、仁平二年九月九日に藤原家成の子家明が補任されている。家明は保元元年一二月二九日に備後守を重任し、二年四月二四日に内蔵頭に補任された際には、左近衛少将は去任しているが、備後守は兼任のままであった。公卿補任では永暦元年正月二一日に播磨守に補任されたことが記されているのみで、この時点で備後守から遷任したとの解釈が可能である。ただ、そうすると光宗が備後守に補任される余地がなくなるので、それ備後守が光宗に交替していなければならない。
 そこで注目されるのが、出雲守基親が平治元年閏五月二八日に伯耆守に遷任していることである。この時に伯耆守光宗が備後守に遷任したのであろう。ただし除目がどのようになされたかを示す史料が残って居らず、公卿補任により基親の経歴のみ知る事ができる。そして、同年末に光保が隠岐国を与えられたことが問題となる。光保は当初は信頼・義朝に協力していたが、二条天皇を内裏から六波羅の平清盛のもとに脱出させ、逆賊となった信頼・義朝を鎮圧することに成功した。光保は本来二条天皇派であったが、藤原信西とその子が朝廷内の重要ポストに多数登用される中、信頼らによる信西一派排除に協力した。それが成功すると、両者を切り捨てた形となった。光保が隠岐国を与えられたという年末の除目は継続したと思われる。源頼政もその除目で伊豆国を与えられ、以後、以仁王の挙兵まで伊豆国を支配している。
 二条天皇の外戚藤原経宗と藤原惟方の二人は、乱後後白河院への圧力をかけ続けた反発を受け、二月二〇日に院の命を受けた平清盛の家臣により逮捕され、二八日に解官となり、翌月には配流された。これに続いて六月には光保・光宗父子が院の暗殺を謀った罪で逮捕され、配流先の薩摩国で殺害された。
 光保が隠岐国知行国主となった際の隠岐守については不明である。備後守から光宗が遷任したのではなく、光保が備後国に加えて隠岐国を知行国としたものであろう。永暦元年六月二〇日に藤原光隆の子雅隆が備後守に補任されているが、これが光宗解官に伴うものであろう。前述のように、藤原家明は正月の時点で播磨守に補任されている。同時に知行国主光保の失脚に伴う隠岐守補任も行われたであろうが、現時点では具体的名前は不明である。

2019年5月11日 (土)

源雅国4

 この対立の調停役となったのが、雅国が女院庁運営の中心となっていた忠通の同母姉泰子(高陽院)であった。石見国が忠通の知行国から高陽院分国となったのであれば、一応は忠通の顔も立てることになる。忠通の知行国は石見国から対馬国に遷ったが、二期八年の任期満了が近づいた仁平二年八月二五日に、忠通は家司でもある中山忠親に石見遷任の功として愛染王百体の造仏を行うよう命じている。その結果、同年閏一二月二九日の除目で、石見守源国保と対馬守源季兼との間で相博が行われた。前述のように、忠通の養女中宮呈子が懐妊していると信じられていた時期であったが、予定日の三月を過ぎても出産に至らなかった。
 高陽院が美福門院の第一子叡子内親王を養子にしていた点は鹿子木庄の問題で述べたとおりである。女院は様々な意味で調停者であり、鳥羽院・美福門院と崇德院、忠実・頼長と忠通の関係もなんとか保たれていたが、久寿二年一二月一六日に六二歳で死亡した。この半年前に近衛天皇が死亡して、ダークホースであった雅仁親王が後継の天皇とした即位したいた。女院の死後半年余り後に保元の乱が起こり、頼長と崇德院が失脚した。
 雅国は、忠実・高陽院との関係が中心であったため、一時的には籠居を余儀なくされたが、その後まもなく復帰し、保元三年一二月二〇日実施の二条天皇の即位の最後の儀式でも「左右侍従六人」の中に修理権大夫雅国朝臣がみえる。雅国の国保も前述のように嘉応元年(一一六九)四月一六日に従五位上に叙せられたことが確認できる。国保の母の兄弟師国は系図には東宮亮とあるが、記録では少納言から仁平二年には皇后宮(多子)亮に補任されていることと近衛天皇並びに高陽門院の殿上人であったことが確認できる。更に仁平三年閏一二月二七日には権中納言に補任された頼長の嫡子兼長が皇后宮を訪れた際に、師国が取り次ぎをしているように、皇后宮役人の中心的存在であった。取次は久寿元年八月二一日まで確認できるが、その後の史料は確認できていない。

源雅国3

 久安五年一一月八日には石見国司重任符について了承されている。雅国は鳥羽院、高陽院司として様々な行事で重要な役割を果たしていたが、国保の石見守重任以降、忠実の後継者をめぐる忠通と頼長の対立が深刻さを益していく。忠通には一一人の息子がいるが、三男が早世して一六年目の康治二年(一一四三)に四男基実が誕生した。長男と次男は後見する母方の家格の関係か、僧侶になっており、一度は父忠実の意向を尊重して二三歳年下の弟頼長を養子として後継者としていた。忠通は基実が六歳となった久安四年には頼長との養子縁組を解消し、基実を後継者とした。
 久安六年には一二歳の近衛天皇が元服したため、頼長が養女多子を入内後立后した。多子は徳大寺実能の嫡子公能の娘であったが、同母姉幸子が八歳年少の頼長の正室となっていた関係で、頼長の養女となっていた。頼長と幸子の間には子はなく、頼長の四人の息子は源師俊娘と源信雅娘が母であった。頼長は養女多子の立后で立場の強化を図ったが、一一歳である多子が出産適齢期となるには時間が必要だった。これに対して忠通は、二〇歳の養女呈子の立后を図った。呈子は藤原伊通の娘で、久安四年に美福門院の養女となっていた。伊通の母は美福門院の父長実の同母姉妹(伊通誕生時に長実は一九歳であり、姉であったか妹であったかは微妙だが、いずれにせよ年齢は近い)であった。
 ただし、伊通と美福門院は二四歳も差があり、且つ伊通は大治三年には年長の伯(叔)父とはいえ、参議補任後一年の長実が、同八年の自分より早く権中納言に昇進したこと等に抗議して、しばらく出仕せず籠居生活をしている。実子近衛が聖子と崇德のもとで成長する中で、近衛に入内する候補として、八歳年長の呈子を美福門院が養女にしたのだろう。それを忠通が自らの養女として頼長と対抗したものである。
 結果として両者とも立后され、多子は皇后、呈子は中宮となったが(清少納言が仕える道隆の娘定子が一条天皇の皇后、紫式部が仕える道長の娘彰子が同天皇の中宮となった先例あり)、近衛天皇が忠通の娘である崇德天皇の皇后聖子の養子となっていたため、忠通邸が里内裏となり、呈子が優位となった。このことに激怒した忠実は、忠通を義絶し、頼長を氏長者として財産を譲った。仁平二年一〇月には呈子が懐妊したと思われたが、想像妊娠であったというハプニングも思っているが、これも忠実と頼長のストレスを増したであろう。

源雅国2

 国保の生年を示す明証はないが、母の姉妹である師俊の娘が頼長との間に子兼長を生んだのが保延四年(一一三八)である事、国保が叙爵している事、さらにはその活動を示す史料がない事を勘案するとその年齢は一〇才前後であろう。実際に国務を行ったのは安芸守であった父雅国である。
 前にも述べたが、大和国で興福寺の反発を受けた知行国主忠通と国守源清忠が天養元年に石見国に遷任してきたが、わずか一年で国保に交替した。石見国は清忠の前任者である卜部兼仲と藤原宗長が国守であった時期は待賢門院の分国であったが、摂関家の分国となり、さらには忠通から父忠実の分国(高陽院の分国の可能性大)に変更された。
 久安三年正月二日には摂政家北政所(忠実母源全子、八八才、准三后に叙せられた同六年に九一才で死亡)給で、雅国は正四位下に叙せられた。殿上人としては最高の位階である。同年三月二八日に高陽院で開催された忠実七〇賀の会では安芸国が饗の女院殿上廿前を、石見国が入道殿御共人前駈廿前を負担している。この頃、北政所や高陽院に慶賀に訪れる公卿に対しては雅国が取り次ぎをしている。高陽院庁の中心人物となっており、「院司雅国」とみえる。
 これに対して新院(崇德)への取り次ぎを行っているのは日野資憲であるが、資憲はその一方では鳥羽院庁下文の署判者としてみえるとともに、長承三年三月一九日に皇后となった泰子の役人が補任された際には権大進に補任されている。父日野実光も摂関家の家司を務めており、その関係からの起用であろう。久安四年一〇月四日に、院殿上で鳥羽院・高陽院等の白川殿への渡御(二六日)の打ち合わせ行われていることについては前にも紹介したが、その掌燈行事として雅国が、御簾行事として資憲がみえるのはそのためであった。

源雅国1

 雅国は石見守国保の父で、忠実の家司であった関係で、その子泰子(高陽院)や頼長との深い関係を持った。彼に関する情報を整理する。
 父国信は、永久の乱後、兄俊房流に代わって村上源氏の中心となった弟顕房の子である。国信本人は正二位権中納言にまで進み四五才で死亡したが、その息子で公卿となるものはなかった。ただし娘信子と俊子(国子とも)が藤原忠通の側室となり、それぞれが近衛基実と松殿基房を産み、信子は従二位に叙せられている。
 雅国は生年は不明だが、天永三年(一一一二)に叔父雅俊の加冠で元服している。同母兄顕国が一四才で元服しているので、雅国は康和元年頃の生まれであろう。そうすると顕国とは一六才差となり、国信三一才時の子となる。永久三年一〇月二八日に、白河院の異母弟輔仁の子有仁が白河院のもとに赴いて元服している。その儀式の役送五位殿上人として雅国が、藤原宗兼(池禅尼父)、清隆、忠隆(信頼父)とともにみえ、叙爵し、院への昇殿を認められていたことがわかる。大治四年七月八日ひは一五日の後白河院の葬送雑事が定められているが、「迎火十五人」の中に雅国がみえる。
 長承二年二月九日には一四才の中納言頼長が春日祭の上卿を務めている。その供奉人内(崇德天皇)殿上人一九人の中に「兵部権大輔雅国」がみえる。七月一三日には鳥羽院女御して入内した泰子の役人が補任されているが、職事の中に雅国がみえる。雅国は忠実の家司であったがために起用されたものであろう。翌三年二月には少納言に補任されたが、三月一九日に皇后宮となった泰子の役人にはみえない。後に石見守に補任される国保は、大夫頼長に次ぐ権大夫に補任された源師俊(前述のように忠実の知行国の国守を務めたことがあった)の娘との間に生まれている。
 保延二年一二月一三日には内大臣に補任された頼長が慶賀として各所を廻っているが、前駆の内殿上人一四人の中に雅国もみえる。一七日に参内した際には、大宰権帥日野実光、少納言雅国、若狭守藤原公信を相具(動向であり供奉ではない)している。この際の前駈は家司七人が務めている。次いで康治二年一月六日には高陽院泰子御給として従四位上に叙せられ、久安元年一二月一七日には新たに忠実の知行国となった安芸国の国守に修理権大夫雅国が補任され、その直後の同二年正月二三日に雅国の子国保が石見守に補任された。雅国の推定年齢は四〇台半ば過ぎである。

2019年5月10日 (金)

藤原信頼4

 このように得子との関係で昇進してきたが、その昇進が加速するのは保元の乱後の保元二年から三年にかけてである。その背景が後白河天皇の寵愛であった。保元二年五月二八日に武蔵守の任期が切れると、自らの知行国として獲得し、わずか三ヶ月前に陸奥守に補任されたばかりの同母弟信説を武蔵守に遷任させている。陸奥守の後任には祖父基隆の弟雅隆が補任されたが、一年もたたないうちに死亡し、保元三年八月一日、その跡に雅隆の甥にあたる村上源氏源雅綱の子国雅が肥後守から遷任して補任された。陸奥国は藤原基隆・忠隆父子の関係者が継続して国守となっているが、武蔵国と異なり信頼の知行国ではない。元木氏は『保元・平治の乱を読みなおす』では陸奥国は一族の知行国(これも意味不明)としていたが、『河内源氏』では信頼の知行国としていた。
 保元二年一〇月二二日、国司等の貴族が造営を分担している内裏について勧賞が行われたが、陸奥国については翌年五月六日に、陸奥守藤原雅隆ではなく、信頼への賞として従三位叙任がなされている。前年の従四位上と正四位下の叙任も父忠隆が圓城寺造営の功によるものであり、理由は何でもありの昇進である。そして保元三年八月一〇日に父忠隆八幡造営賞による正三位叙任と権中納言への補任が行われた。
 翌保元三年八月一一日に皇太子守仁への譲位が行われ、一二月二〇日までに即位の儀式が完了したが、正三位権大納言からの新たな叙位と補任は困難となった。一一月八日に検非違使別当、二六日には左兵衛督から右衛門督に転じたのが最後となった。検非違使別当については、翌年三月には辞任し、叔父藤原光頼と交替している。『平治物語』が記す「左大将」を希望したかは不明だが、保元の乱後は信西入道の子が蔵人頭、参議などの重要ポストに次々と補任され、新たなライバルが増加し、旧来の勢力の地位は低下しつつあった。古澤氏の論文では、従来からの通説であったとしつつ、以上の点が平治の乱の原因であったとする。元木氏は信頼がクーデターに加担した人々と目指したのは二条親政であるとするが、古澤氏が説くように、信西とその関係者を排除することが目的であった。
 

藤原信頼3

 陸奥守基成の後任である甥隆親は仁平三年閏一二月二九日の補任時点で一〇才前後と考えられる。祖父忠隆は久安六年八月三日に死亡しており、母方の祖父忠盛も仁平三年一月一五日に死亡した中で、叔父である基成が辞職して甥に譲った形で補任が実現した。保元二年五月一八日に内蔵権頭に補任された隆親の後任の陸奥守に信頼の同母弟信説が補任されたのも基成の意図であろう。隆親も叔父信頼の影響下にはなく、永万元年には関白藤原基房のもとで播磨守に補任されている。忠隆の娘が忠通の嫡子基実の妻となっているが、これも忠隆が幼少の子の将来のため、忠通との結びつきを持ったのではないか。子基通が誕生したのは永暦元年であるが、この時点で基実は一八才である。元木氏の説くような、忠通が自らの車の前を横切った信頼の車を破壊して後白河から理不尽な処罰を与えられた保元三年四月以降に、忠通が信頼の妹を嫡子基実の妻(側室ヵ)としたものではなかろう。
 それであるなら、平治元年末の信頼の誅伐によりその妹ならびに翌年生まれた基通の立場は悪化し、基通が基実の後継者とはならなかったのではないか。平治の乱後、忠通が基実の妻として九才の清盛の娘盛子を迎えたのと同様、将来を見越してのものであろう。忠隆女子は藤原家成の嫡子隆季にも嫁いでおり、久安四年には嫡子隆房が生まれている、
 以上により、元木氏が信頼と義朝の関係として述べている内容には十分な根拠がないことが明らかである。本来の忠隆の嫡子隆教は待賢門院・崇德との関係が強かったが、信頼は天養元年一月六日に皇后宮(得子)御給で叙爵し、久安二年二月二六日には暲子内親王御給で従五位上に叙せられている。久安六年七月二八日に藤原季行(姝子内親王の乳母夫)と相博して武蔵守に補任され、仁平二年正月二八日には右兵衛佐を兼ねた。

藤原信頼2

 隆教の母栄子は崇德天皇の乳母であった。基隆・忠隆父子は待賢門院庁の別当である。忠隆が永治元年一二月の近衛天皇の即位時にその母得子の皇后宮亮に補任され、信頼も一二才となった康治三年正月に皇后得子給で叙爵しているが、その間の康治元年七月一二日には、五日の近衛天皇の土御門皇居への行幸に供奉しなかったとして嫡子隆教と藤原忠頼、藤原公重、平家盛が処罰されている。いずれも待賢門院と関係の深い人物で、崇德天皇の退位、母待賢門院の出家の経緯に不満があったと思われる。
 崇德の退位の直後の永治元年一二月には待賢門院の異母弟季成と同母長兄実隆の子公隆が近衛天皇即位後初の神今食に不参であったとの理由で参議と兼任する職を停任されている。その処分が解除された翌年七月に再び事件が起きたのである。他の三人の処分が恐懼で、約二〇日後の八月三日に解除されたのに対し、隆教は三ヶ月を超えた一〇月二二日に還任を認められた。
 元木氏は基成が父の服喪期間を挟んで一〇年あまりも陸奥守であったとするが、久安五年一〇月一六日には某兼忠が陸奥守に見任しており、康治二年の補任後一期四年で退任した後に、久安六年の前半(八月六日に忠隆が死亡)に二度目の陸奥守に補任された可能性が大きい。康治二年の補任も父忠隆が大膳大夫を辞職して、陸奥守藤原師綱と相博する形であった。信頼は、久安四年正月二八日に忠隆が伊予守から大膳大夫に遷任することで土佐守に補任され、同母弟家頼も久安五年一〇月一九日に忠隆が大蔵卿を辞任することで長門守に補任されている。基成の二度目の陸奥守補任が十八歳の甥信頼の影響下にあったとは考えられない。
 信頼の名前からは母方との関係がうかがわれる。祖父顕頼とその嫡子光頼である。同母弟も二人おり、家頼と信説であるが、後者の名前は顕頼の子説頼と関係があろう。ただし、一〇代後半の信頼が一〇才以上も年長である基成に影響力を行使できたかは疑問である。それは武蔵国をめぐる義朝との関係も同様である。せいぜい言えるのは義朝の長子義平が秩父氏と結ぶ叔父義賢を殺害したことを黙認した程度であろう。

 

藤原信頼1

 平治の乱の主役の一人信頼については、元木泰雄氏の最新刊『源頼朝』では以下のように記されている。「信頼は息子信親を清盛の婿に、平泉藤原氏の秀衡を兄基成の婿に迎えて姻戚関係を結び、知行国武蔵・陸奥を通して義朝を従属させていた」と。より具体的に述べた同氏「藤原信頼・成親-平治の乱と鹿ヶ谷事件」(『保元・平治の乱と平氏の栄華』(二〇一四年)、『平清盛と後白河院』(二〇一四)、『河内源氏』(二〇一〇)、さらには信頼の一族について詳細な『保元・平治の乱を読みなおす』(二〇〇四)をも参照しつつ、確認したい。
(補足)途中で原稿作成がストップしたが、その後、古沢直人氏「平治の乱における源義朝謀叛の動機形成 : 勲功章と官爵問題を中心に」「平治の乱における藤原信頼の謀叛 : 再評価と動機形成をめぐって」「平治の乱の要因と12月9日事件の経緯について : 河内祥輔氏の学説検討を手がかりにして」「二条天皇の六波羅行幸をめぐって」(前三本は二〇一三、一本は二〇一八年、いずれも法政大学学術機関リポジトリで公開されている)を読んだ。そこでも元木氏が論文としてではなく、啓蒙書として述べていることでその説の検証が困難だということが述べられている。
 信頼には異母兄が少なくとも二人いた。藤原顕隆の娘を母とする隆教と藤原季孝の娘を母とする基成である。任官の状況からして両者とも信頼より一〇才以上年長であったと考えられる。それは信頼の母が顕隆の孫娘であったことからも推測できる。
 本来の嫡子と思われる隆教は保延五年四月三〇日に鳥羽院が女御得子の安産を祈って石清水など五社に送った奉幣使の一人「祇園 使左兵衛佐従五位上藤原朝臣隆教」としてみえる。「従五位上右兵衛佐」に院近臣基隆の嫡子であった父忠隆が叙任したのが一六才、隆教の死(一一四二年一二月五日)後、嫡子となった信頼が叙任されたのが二〇才である。また、隆教と平忠盛の娘との間に生まれた隆親が陸奥守に補任されたのが仁平三年(一一五三)閏一二月二九日であることを勘案すると、隆教は忠隆が二〇才(一一二一)までに生まれていたと思われる。

 

2019年5月 7日 (火)

「平治」改元の経緯から

 世間では連休が終了したが、当方にはほとんど影響はない。相変わらず記事をいくつか書いているが、完成にいたらない。とりあえず、今読んでいる資料から、「平治」改元について紹介する。
 保元・平治の乱で知られる「保元」は久寿三年四月二七日に改元したものである。後白河天皇の即位後初の代始の改元であったが、七月には保元の乱が起きた。保元年間には内裏造営が行われたが、同三年八月に予定通り子守仁親王に譲位し、二条天皇の即位となった。その即位後初の改元が保元四年四月二〇日に行われ「平治」となったが、一二月には平治の乱が発生した。
 元号の案を作成したのは式部大輔兼石見守藤原永範、文章博士藤原長光、同藤原俊経と参議藤原俊憲(信西入道の子)である。応暦・淳仁(俊憲による)、保貞・承宝・弘保(永範)、永世・久承(長光)、大喜・平治・天大(俊経)であり、この中から「平治」(出典は『史記』)が選ばれた。俊経は参議日野顕業と大江有経の娘の間に生まれ、蔵人、式部大丞、摂津守、治部権少輔、文章博士、左大弁を経て参議となっている。
 公卿の会議では淳仁と平治に意見が分かれたが、「淳仁」は醍醐天皇の諱「敦仁」と読み(あつひと)が同じであることから、大殿藤原忠通(保元の乱の主役であり、乱により摂関家が衰退したとの通説には反対である)に助言を仰ぎ「平治」が採用された。
 八世紀半ばに孝謙女帝の後継者となった「淳仁天皇」がいたが、擁立した恵美押勝が反乱を起こして失脚したことにより廃位され淡路国に流された。重祚した称徳女帝の意向により天皇とは認められず、「廃帝」「淡路廃帝」と呼ばれた。この復権を図る勢力もあり、逃亡を図った廃帝は捕らえられ、翌日に病死したことになっているが、殺害されたとの説が有力である。明治三年七月二四日(一八七〇年八月二〇日)に明治天皇(実際には明治政府)から弘文天皇(大友皇子)、仲恭天皇(後鳥羽天皇の孫、承久の乱時の天皇)とともに、「淳仁天皇」という諡号を送られた。
 ちなみに当方は元号は不要という立場で、天皇も今回で最後として順次廃止のための移行措置をとるべきである。日本列島の自然環境こそがアイデンティティーとなるべきで、島国ではあるが住みやすいため、少しずつ海外からの人々が流入し、新たな要素が付け加わっていく。地震が多いのも特徴であり、原発を設置するには地球上で最も適さない場所である。

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