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2019年4月11日 (木)

憲方・光房・経房2

 「国司一覧」では光房が長承元年一一月二三日時点で摂津守に現任していながら、その一方で同年九月一九日に伊賀守である出典が記されている。矛盾しているので確認すると、『兵範記』(活字)と『知信記』(宮内庁書陵部蔵写本)には該当する年月日の条文に伊賀守関係記述は見当たらない。このあたりは「国司一覧」を更新した最新の研究データの必要性が感じられる。とりあえずは比較的最近のものである『三重県史』で確認したい。この時期の摂津国は光房の父為隆の知行国との推定が可能だが、一方では大治五年九月八日に為隆が死亡したことが摂津守光房の地位に影響していない。父の死亡時に光房は二二才、兄憲方は二五才である。知行国主をいただかない国守に移行したのだろう。憲方は出雲守から周防守、さらには近江守に遷任し、近江守辞任(天養元年)と同時に子頼憲が相模守に補任されている。この点も前述のように憲方が相模国知行国主であったことを裏付ける。
 保延四年四月一九日に崇德天皇が小六条から還御した土御門殿は、伊賀守光房が遷任の功として修造したものであった。伊賀守退任後は勘解由次官兼蔵人を経て久安三年正月の除目で右少弁に起用され、以降は中央でのポストを歴任する。この時に右衛門権佐であった兄憲方も弁官を望んだが、光房が選ばれた。これに対して憲方は保延元三月に女院が渡御した法金剛院東新御所を修造しているように、待賢門院との関係が深かった。
 康治二年(一一四三)四月には皇后得子(美福門院)が白河押小路御所に移渡し、七月には前斎院統子内親王が三条室町殿に移渡している。前者は美福門院分国丹波国の国守であった藤原俊盛が造営したのに対して、後者は待賢門院分国であった安芸守源光隆が造進したものであった。前者の記事には勘解由次官光房と右衛門佐兼近江守憲方ともにみえるが、後者の記事には憲方のみみえる。

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