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2019年4月11日 (木)

憲方・光房・経房5

 経房は同年一〇月二二日には大内裏(左衛門陣後庁)造宮賞として従五位上に叙せられているが、伊豆守としての功であったと思われる。平親範は蔵人右少弁、義父範家は蔵人頭木工頭であった。この時の叙位で、伯父憲方は子である紀伊守頼憲の造営賞により従四位上、親範と源義朝は正五位下、後に相博する安房守平義範と卜部基仲は経房とともに従五位上に叙せられている。保元三年二月三日に統子内親王が後白河の准母として立后されると、経房は皇后宮権大進に、義朝の子頼朝は権少進に補任された。翌四年二月一三日に統子内親王が院号宣下により上西門院となると、経房は判官代、頼朝は蔵人に補任された。
 皇后宮のその他の役人は権大夫(後に大夫)徳大寺実定、権亮藤原信頼、大進平親範、権大進藤原為綱、少進源清雅である。実定は待賢門院の同母兄で、女院別当実能の孫、信頼は待賢門院別当忠隆の子で祖父基隆も女院別当であった。親範の祖父実親は待賢門院判官代を経て参議となった。母方の祖父は待賢門院別当藤原清隆である。為綱は待賢門院判官代親隆の子、清雅は自らが大治五年一月には待賢門院判官代として、女院御所を訪れた人々の取り次ぎを行っている。清雅の父雅職は摂関家職事であったが、忠実から追放され、その後、院との関係を強めた。仁平四年正月三〇日に左大臣頼長嫡子師長が上卿として春日祭に派遣されているが、それに従った崇德院殿上人として、「散位清雅、甲斐判官代」がみえる。父雅職が甲斐守であったことと、清雅自身が女院判官代であったことからの呼び名であろう。統子内親王の皇后宮の役人がすべて母待賢門院の関係者であることがわかる。
 同母兄弟であった憲方の嫡子頼憲と光房の嫡子経房の運命を分けたのは、頼憲がその猶子となった藤原惟方が、永暦元年二月に後白河院の命を受けた平清盛により配流されたこととであろう。翌永暦二年四月一日に経房は祖父為隆去天永二年春日社行幸賞として正五位下に補任され、為隆流の惣領としての地位が確立している。経房は長寛二年二月二八日には安房守を辞任して猶子有経に替わることで安房国知行国主となり、続いて実子定経、定長を安房守とした。

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