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2019年4月 7日 (日)

相模国は美福門院分国か3

 義朝が久安三年(一一四七)には熱田大宮司家の藤原季範の娘との間に頼朝をもうけた点について元木氏は、季範が待賢門院側近であるとするが、それはその娘に待賢門院女房大進局がいることが根拠であろうか。季範については角田文衛氏『古代の明暗』で論じられているが未見であるので、とりあえずそれを踏まえた藤本元啓氏『中世熱田社の構造と展開』等(一一二二)を参照した。
 尾張国目代であった藤原季兼の子季範が従来の大宮司尾張氏に代わって永久二年(一一一四)に二五才で大宮司に就いているが、この年には藤原季成が尾張守に補任されている。季兼が目代であった時期の尾張守藤原長実と季成の関係について、藤本氏は季成の異母兄三条実行の妻が顕季の娘(長実の姉妹)であることとの関連を説かれるが、あまりにその関係は薄弱である。季成は尾張守補任時に一三才でしかなく、知行国主が誰であったかが問題となる。季成は保安二年閏四月に二〇才で加賀守に補任されているが、その際の知行国主は異母兄西園寺通季であった。通季は待賢門院の同母兄であり、永久三年には二六才で参議となっており、季成は知行国主西園寺通季のもとでの尾張守であったと考えられる。両者は「季」の一字を共有している。ということで、藤本氏の指摘(季範が季成の目代であった可能性にも言及)には根拠がない。ただし、季範の娘が待賢門院女房となる背景にはなったであろう。
 角田氏は大治四年(一一二九)四月一九日の斎院御禊の蔵人所前駈雑色二人の中にみえる「季範」(『中右記』)を熱田大宮司季範と同一人物とされているが、季範はこの年四〇才であり、ありえない比定である(季範が「従四位下」とする系図の記載の裏付けもない)。四月二五日にみえる「尉季範」(源季範)であろう。一九日の雑色に続いてみえる衆四人の一人「盛兼」が二五日の「尉季範」の次に記されている。また、季範が久寿二年二月に周防守に任官し、同年一二月に死亡したとしているが、これも源季範の誤りである。角田氏の史料収集は広範囲に及ぶもので評価出来るが、その解釈の検証も必要である。藤本氏は義朝と季範娘との縁組みには義朝母方の待賢門院別当藤原清隆・同蔵人藤原康俊が関与したとするが、これも根拠薄弱である。季範の事跡については系図の記載を除けば史料を欠いている。

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