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2019年4月18日 (木)

下総守藤原親通

 元木泰雄氏『保元・平治の乱を読みなおす』には、親通が皇嘉門院に仕える院司であるとの記述があったので、関係史料を捜すが見当たらない。そこでより説明が詳細な『河内源氏』で確認すると、親通の一族に皇嘉門院の判官代が多いことを考えると彼等は摂関家に従属していたと考えられるとの記述があり、肩透かしをくらった気がした。当該テーマに関する氏の論文集があれば、出典も確認できるが、摂関政治に関するものはあっても、院政期については、概説のみで、本により説明に濃淡がある。
 系図では親通の孫親長(親頼子)と親雅(親盛子)に「皇嘉門院判官代」との注記があるが、親通の二代後である。親通に関する史料はあまりないが、受領としては天仁三年(一一一〇)補任の山城守が初任で、次いで大治二年(一一二七)に現任が確認できる下野守をへて、保延二年(一一三六)に下総守現任が確認できる。義朝が千葉常重から「圧状之文」を奪った康治二年(一一四三)の正月には親通の子親方が下総守に補任されている。山城守と下野守の間、下野守と下総守補任の間には散位であった時期があると思われる。有力な院近臣のように、間を置かず遷任する状況にはなかったが、下総守は子親方が継承しているように、この時期には地位の向上が見られたのであろう。親通の娘が頼盛の妻となり、親盛の子親雅(政)は忠盛の娘を妻とし、娘二条内侍は重盛の妻となっている。
 頼盛の娘を母とする保盛は保元二年(一一五七)の生まれであり、忠盛の娘と親雅の結婚もこの時期であろう。平家との関係を強めたのは保元の乱前後からである。皇嘉門院との関係としては、親通の子親盛が仁安二年(一一六七)八月一〇日の時点で「女院=皇嘉門院判官代」であったことが確認できる(『愚昧記』)。以上をみる限り、親通が皇嘉門院の院司であったとの元木氏の記述は適切ではない。摂関家との関係も親通の父伊信を含めて史料がなく不明である。

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