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2019年4月 7日 (日)

相模国は美福門院分国か2

 従兄弟(憲方の同母弟光房の子)吉田経房が一〇才で叙爵した事を勘案すると、その七年後に相模守補任時に頼憲は一〇代後半であったと思われる。同母弟光房が鳥羽院近臣と摂関家家司であったのに対して、憲方は鳥羽院と待賢門院の近臣であった。知行国主は父憲方であろう。憲方死亡時には三〇代半ばと思われるが、系図には同族の惟方の猶子となったことが記されている。
 惟方と頼憲の妻はともに藤原知通の娘であった。惟方は憲方よりも一九才若く、憲方は子の将来を惟方に託すため、その猶子としたのであろう。惟方は二条天皇の側近であったが、永暦元年二月に後白河院の命令を受けた平清盛の郎等に逮捕され、長門国へ配流された。この事件は頼憲のその後の昇進にも影響を与えたと思われる。憲方が五五才で死亡したのは同年五月四日であった。
 続いて仁平三年に義朝が国守に補任された下野国に注目し、摂関家知行国とは考えられず、よって守補任は摂関家の推挙ではないとした上で、前任の下野守が藤原宗長であることから、下野国が院周辺の勢力の知行国であることを物語るとする。ここから、義朝は摂関家ではなく鳥羽院に接近して受領の座を射止めたことになるとした。院周辺がいつの間にか鳥羽院にすり替えていることが問題である。
 系図では宗長の弟と思われる宗賢にも「下野守」との注記がある。兄であろう宗長が最初に受領となったのは父宗兼の跡を継承した和泉守で、補任時期は不明だが、保延三年一二月に石見守卜部兼仲と相博している。下野守の補任状況を勘案し、宗長の受領補任に続いて弟宗賢が下野守に補任されたとすれば、宗賢は日野資憲の前任者であった可能性が大きい。すなわち義朝に至る下野守は藤原宗賢→日野資憲→藤原宗長→藤原宗国→源義朝であったことになる。
 藤原宗長は仁平二年正月に「高陽院・入道殿(忠実)給」で従五位上に叙されている。日野氏も摂関家の家司を務めており、資憲は長承元年二月二八日には法成寺両塔供養の仏事奉行の勧賞により従五位上に叙せられている。また長承三年三月一九日に藤原泰子が鳥羽院の皇后宮とされた際には、日野資憲が皇后宮権大進に補任されている。元木氏は摂関家知行国とは考えられずとしたが、その可能性が無いわけではないのである。ただし、それ以上に待賢門院分国を経て崇德院の分国となった可能性が大きい。

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