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2019年4月22日 (月)

佐陀庄の領家とその関係者1

 1~3でポイントとなる点は述べているが、若干の補足をしたい。保延年間にも鳥羽院と待賢門院(大治年間から開始)の御願寺造営が継続していた。保延四年(一一三八)八月一一日には鳥羽東新堂御所へ鳥羽院と三位殿=得子が初めて渡御している。この年の四月には美福門院の第二皇女が宣下を受けて暲子内親王となっている。後の八条院である。また、四月一九日には崇德天皇が小六条から土御門殿に還御しているが、これは伊賀守であった藤原光房が功として修造したものであった。ただし、七ヶ月後には焼失し、天皇は再び小六条に移っている。
 翌五年二月二二日には鳥羽東殿三重塔の供養が行われている。後には安楽寿院と呼ばれる鳥羽院の御願寺で、塔は寵臣右兵衛督藤原家成が造進した。三三才の家成は家保の子で、長実の子である得子とは従兄弟同士である。佐伯智広氏の研究では、白河院が崇德の近臣の核に家成を考えていたが、鳥羽院がそれを奪い取ったかの評価がなされているが、誤りである。家成は鳥羽院と崇德天皇の近臣であった。ただし、白河院(本院)と鳥羽院(新院)の関係と同様、治天の君である鳥羽院との関係が目立っているだけである。
 一ヶ月後の三月二二日には左衛門権佐藤原親隆が増進した法金剛院東御所の供養が行われている。四一才の親隆は藤原為房と讃岐宣旨(法成寺執行隆尊の子で、忠通の乳母)の間に生まれ、鳥羽院、待賢門院並びに摂関家との間に緊密な関係を有していた。待賢門院当年御給として大治五年(一一三〇)一〇月には従五位上、長承四年(一一三四)正月には正五位下に叙せられ、天承から長承年間には女院判官代であったことが確認できる。親隆は異母兄顕隆の嫡子顕頼よりも五才年少であるが、顕頼は保安三年(一一二二)には二九才で正五位下となっている。得子が鳥羽院の寵愛を受けるようになると、顕頼と待賢門院の関係が悪化するとした角田文衛氏の説も誤りである。
 一才上の同母兄朝隆は鳥羽院との関係が中心であったが、鳥羽院の死後は朝隆・親隆ともに美福門院庁の中心となった。保延年五月一八日に得子の第一皇子体仁が誕生し、八月十七日には立太子され、得子は女御となった。春宮傳が藤原頼長、権大夫が家成である。ただし、誕生と同時に体仁は崇德天皇・中宮聖子の養子となり、そのもとで育てられている。

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