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2019年4月17日 (水)

藤原尹通について2

 元永元年正月に子尹経が阿波守に補任されたが、庄園の立券の処理など実際の業務は知行国主である尹通自身が行っている。同年八月の関白藤原忠実家政所下文にも「皇后宮権大進藤原朝臣(尹通)」が署判を加えている。元永二年一二月二八日には尹通が中宮(璋子)大進に補任された件について、記主藤原宗忠は、尹通は安芸守退任後、公文の功過を受けていないのに、皇后宮権大進になったことと合わせて批判している(『中右記』)。
 これに対して尹通は同年一一月に遷宮が行われた石清水八幡宮を造進して子尹経の任官功を募る一方で、保安元年正月二八日には安芸国の解由を提出して功過を受けている。尹通の提出した書類には不備があったが、尹通については白河院から内々の指示があるとして、不備を補うよう指示をして、公卿会議での功過を終わっている。翌二月一日には中宮使として大進尹通が春日祭に派遣されている。一二月一九日には尹通が左衛門権佐に補任されている。
 尹通の子尹経は侍従所監藤原忠季の娘を母とし、永久五年(一一一七、伊通三八才、以下同じ)一一月二一日には「蔭孫正六位下藤原朝臣尹経」とみえ、藤原為隆の子憲光とともに文章生試詩に合格し文章生に補任された。父尹通も「正五位下行安芸守兼皇后宮(令子内親王)権大進藤原朝臣尹通」として審査員に名を連ねていた。翌元永元年正月一八日に叙爵し、同日に禛子内親王未給分により阿波守に任命された。同母兄弟である知通は康和五年(一一〇三)生で、保安元年(一一二二)正月一四日に学問料を給され、蔵人式部であった大治四年(一一二九)八月二八日に二七才で叙爵している。系図の記載順から尹経は弟と思われるが、前述のように学問の才で勝っていたためか、一一年も早く叙爵したことになる。尹通の名は母方の祖父藤原通宗(信西入道の母も通宗之娘)にちなむものであろう。
 阿波国は院分とあり、白河院分国で、父尹通が知行国主であった。元永二年一二月に遷宮が行われた下賀茂社正殿は、尹通が子である阿波守尹経の重任功として造営したものである。また、廻廊・中門についても造営を請け負っている。任期途中の保安三年(一一二二)四月に尹通が死亡したにもかかわらず、その地位には変化はなかった。この時点で尹経が成人に達していたため継続した可能性もあるが、一方では院分であったため院近臣がサポートする形で阿波守を務めた可能性が大きい。天治元年三月の待賢門院の第二皇子出産時の儀式の饗でも、阿波国が上達部分を負担している。これに対して石見守退任後の尹経関係史料な確認できず、その子(男女とも)も不明である。

 

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