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2019年4月 7日 (日)

相模国は美福門院分国か5

 次いで康治二年四月七日には親弘が左馬助(正六位下相当)に補任されているが、四月三日には安房守親忠が造営した白河押小路御所に皇后得子が移っており、その功によるものか。翌久安二年一二月二一日にはその子親長が皇后宮(得子)御給で修理亮に補任されている(『本朝世紀』)。隆信が美福門院の死後しばらく官職に補任されなかったのに対して、親弘はその後も但馬守、河内守を歴任し、治承四年一〇月に死亡している。
 親弘については永久五年(一一一七)頃の生まれ(父親忠は二三才)ではないかとの推定があるが(谷山茂「親忠家と俊成」)、その経歴からみて妥当である。となると親弘が相模守に補任されたのは三〇代半ばで、且つ上総介を経てのものであり、知行国主はいなかった(美福門院分国ではなかった)と思われる。父親忠のように美福門院とその関係者の御所造営を親弘が行った記録も確認できない。ただし、鳥羽院死後の安楽寿院公文所の役人となっているように親弘が美福門院の近臣であったことは間違いなかろう。
 以上、元木氏の説を検討したが、相模守頼憲の在任から義朝が鳥羽院に接近して下野守に補任された点と、下野国が鳥羽院関係者の知行国であるとの説には問題があると思われる。鳥羽院よりも待賢門院・崇德との関係で得たものである。よって頼憲の後任の相模守藤原親弘が美福門院の関係者であることは事実であるが、それが義朝の下野守補任の背景となったとはいえない。この点を補強するために、次回は頼憲の父憲方について述べる。

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