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2019年4月25日 (木)

歴博概報Vol2の2

 益田氏と長野庄の関係については、「益田家系図写」(山口県文書館蔵)に長寛二年正月二七日に益田兼栄が高津本郷下司に補任されたと記されている。長野庄の成立以前なら高津本郷郷司であるべきだが、庄園に寄進された結果、領家が補任権を持つ下司となったはずであり、問題はない。この時点で長野庄が立券されたとの推定も可能だが、一二世紀前半から半ばにかけての石見守卜部兼仲、藤原宗長(ともに待賢門院分国)あるいは源国保(藤原忠実の知行国)の時代であろう。それに先行する藤原盛重、藤原資盛と藤原尹経の父尹通(ただし在任中の保安三年四月二日に四三才で死亡)はいずれも白河院の近臣であった。
 豊田郷の領域については既に述べたが、『概報Vol1』と渡邊氏論文では「中道」が俣賀村分割する際の境界ではないという自明の理がようやく確認されたが、豊田郷の領域とともに「中道」そのものも再検討が必要である。あくまでも横田下村の中道であり、大山氏の説いた豊田郷内を貫通する中道ではない。また、横田郷が明治期の安富を除く豊田村であるとの大山氏の誤りが踏襲されている」。
 『概報Vol2』には「また、横田町の武士内田氏の豊田郷内の所領「大岳」も同地(虫追)に地名として残っています。」というあり得ない記述もみられる。「大岳(嶽)」は文永八年四月三日内田西仏譲状に豊田郷を構成する所領の一つとしてみえ、元徳三年六月一〇日六波羅教書写では豊田郷内とみられる角村地頭によって押領されたことを豊田郷内の所領の地頭代である兼阿が訴えていることがわかる。角村が現在の隅村町と神田町であり、大岳(嶽)が現在は神田町の対岸にあり「大滝」であることは明白である。
☆この文は三月初めに書いて、諸般の事情で放置していたが、藤原尹通と尹経などその後に述べた部分と重複する部分を削除し、最小限加筆したものである。

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