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2019年4月24日 (水)

源雅頼・兼忠父子2

 雅頼は久安五年(一一四九)三月二〇日に近衛天皇の御願寺延勝寺供養に伴い、皇太后宮(得子)御給分としてようやく正五位下に進んだ。仁平二年一一月一五日には忠通の嫡子基実が慶賀のため所々を訪れているが、治部大輔雅頼も車の後に扈従している。そして九条殿に忠通の北政所(皇嘉門院の母)を尋ねた際には、職事雅頼が取り次ぎをしている。雅頼が皇嘉門院の父忠通とも関係を有していたためであろう。
 保元の乱をへて、雅頼が保元四年正月の正四位下叙位と翌永暦元年四月三日に正四位下叙位は五位蔵人兼左少弁であった父雅兼が天永三年七月二四日の鳥羽天皇の平野大原野行幸で行事を務めたことに対する賞であった。永暦元年(一一六〇)一〇月三日には後白河から皇位を継承した二条天皇の蔵人頭に補任されたが、同年一一月二三日には養母美福門院は死亡し、後白河院派と二条天皇派の対立が激化する。
 雅頼は長寛二年(一一六四)正月に参議に進む。翌永万元年七月二八日には二条院が死亡したが、その子六条院が死亡する安元二年七月一七日までは二条院・六条院派は健在であった。仁安二年二月一一日には従三位(鳥羽院天養二年未給)に叙せられ、翌三年正月一一日には六条天皇が閑院から大内に還御したことに伴い正三位に叙せられた。その一方で同三年一一月二〇日に一九才で叙爵していた嫡子兼忠が、承安二年一〇月二六日に養父俊定から譲られる形で侍従に補任された。実際に仁安二年三月二〇日から承安二年三月二六日にかけて源俊定が侍従であったことが確認できる(『愚昧記』)。俊定は父雅頼の母方の従兄弟俊雅(能俊嫡子)の子である。あるいは母(藤原家成の娘)が早世したために、俊定のもとで育てられたのだろうか。兼忠の同母兄弟(姉妹)は確認できない。いずれにせよ、雅頼・兼忠父子が能俊の子孫となお深い関わりを持っていたことがわかる。

 

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