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2019年4月22日 (月)

佐陀庄の領家とその関係者3

 白河の死により治天の君となった鳥羽は前院の方針の一部を変更していく。両者の対立をみたが、院政を行った三人の中で、後白河にのみ資質の問題があったことが強調されているが、白河の政治に対しては『中右記』の記主藤原宗忠が、鳥羽の政治には藤原忠実の痛烈な批判があるように、三人それぞれに大きな欠陥があったというのが事実であるあろう。
 話を佐陀庄の問題に戻すと、康治二年八月一九日の太政官牒で佐陀社と一括して説明される上総国橘木社(庄)が、信西による安楽寿院への寄進に基づき庄園としての立券がなされようとしたのは保延七(永治元、一一四一)年であった。佐陀庄の立券も同時期であろう。その時点の上総守については、保延四年正月に補任された小槻師経であろうか。小槻家は実務の家であり、院への配慮なく対処したのであろうか。鳥羽院庁下文が出され、四至牓示を打つ段階で在庁官人と隣接する藻原庄から異論が出されたため、立券は完了しなかった。そのためか、康治元年(一一四二)一〇月には藤原季兼が上総守となっている。季兼は白河院の近臣で待賢門院と鳥羽院の別当を務めた敦兼の子で、久安五年三月に鳥羽院の近臣源資賢に交替している。まさに「上総御曹司」と呼ばれた源義朝が相馬御厨の対立に干渉したのは康治二年であった。元木氏は下総守藤原親通に注目されたが、上総守についても留意しなければならない。
 一方、当時の出雲守は保延四年一二月補任の藤原光隆で、待賢門院と鳥羽院の別当である父清隆が知行国主であった。出雲国佐陀庄の立券では上総国のようなトラブルは発生しなかったと思われる。康治元年八月一八日には出雲国在庁官人が杵築大社造営に関して、朝廷から庄園の本家・本所への課税命令を出すことを求め、光隆が解状を提出し、翌二年三月一九日に官宣旨が出されている。その背景にあったのが佐陀庄など大規模な領域的庄園が成立していたことであった。鳥羽院ならびに近臣清隆は両方の立場を使い分けているのである。ちなみにこの官宣旨には権右中弁藤原朝隆(親隆の兄)と太史小槻宿祢某(師経の父政重)の名が、同年八月一九日太政官牒には左中弁藤原資信と左大史小槻政重の名が記されている。

 

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