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2019年4月17日 (水)

藤原尹通について3

 尹通の子としてはこの外に大治四年(一一二九)八月二八日に叙爵した蔵人式部知通と同日に式部丞から蔵人に補任された有盛がいる。この日に石見守が尹経から卜部兼仲に交替していることからすると、尹経に健康上の問題(死亡を含む)が生じたため、兄弟二人の叙爵と補任が実現した可能性が高い。尹経の活動はこれ以降確認できない。
 長承元年一二月二五日に中宮職(侍長=聖子の侍所ヵ)正六位下藤原有盛について、待賢門院別当の筆頭である大納言兼治部卿源能俊が、希望した修理亮補任の請状を提出している(『知信記』)が、その後の史料は確認できない。これに対して知通は藤原俊忠の娘を妻としている。尹通が死亡した保安三年に五〇才の俊忠は権中納言に補任され、その翌年に死亡している。藤原定家の父俊成は俊忠四二才時点の誕生である。俊忠の末子と思われる俊定は、知通の養子となっている。同母兄弟知通は康和五年(一一〇三)生で、俊定(知通母の弟)は姉の夫知通の養子となったと思われる。
 知通は長承元年(一一三二)一一月二三日には常陸守(親王任国であるため、実際には常陸介)としてみえる(『中右記』の史料大成本では「知迪」と読まれている)。そして保延元年五月日待賢門院庁下文には別当の一人として「常陸介藤原朝臣」が署判を加えている。『大日本古文書 東大寺文書』では「藤原公信」と注記するが、前述のように誤りである。編纂所花押カードデータベースでは「知通」としており、これが正しい。同三年九月の女院庁下文も同様であるが、保延四年五月二〇日と一一月一八日の鳥羽院庁下文の署判者としてもみえ、女院のみならず鳥羽院の近臣にもなった。
 その後、保延七年六月二三日と八月二五日の鳥羽院庁下文には「東宮学士藤原朝臣」として署判を加え、崇德天皇の皇太弟体仁の学士になったことがわかる。ただし一一月二一日には四一才で死亡しており、康治元年一二月一三日の下文に署判者としてみえないのはこのためであった。

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