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2019年4月 7日 (日)

相模国は美福門院分国か4

 元木氏の議論に戻ると、仁平三年の義朝の下野守補任は、彼が摂関家を離れ鳥羽院中枢に接近したことによるとし、その背景として、その前年の仁平二年正月に美福門院の乳母夫藤原親忠の子親弘(元上総〔野ヵ〕介)が相模守に補任されたことをあげる。親弘は久寿二年一二月二五日に重任し、保元二年十月二三日には正五位下に叙されている。保元三年二月日安楽寿院公文所下文に署判している相模守藤原朝臣も親弘であろう。
 これに対して「知行国主・国司一覧」(『中世史ハンドブック』)では、『山槐記』仁平二年一一月一五日を根拠に(源)頼定に相模守が交替したとする。藤原基実が三位に叙せられたことに伴い関係各所を慶賀しているが、その扈従として「相模守」がみえ「頼定」と注記されている。ただし『兵範記』同日条には「散位頼定」と記している。仁平四年一月一日に基実が各所を挨拶にまわった際にも「散位頼定」が扈従しているが、翌二日には太政大臣以下が崇德院や皇嘉門院を奉聞しているが、そのメンバーとして「相模守頼定」がみえる(『兵範記』)。このように記載が混乱したのは頼定が前相模守(時期的には長承二年補任の藤原清隆の子隆盛の前任であろであったためであろう。
 五味文彦氏の研究で乳母夫親忠の子孫で美福門院分国の国守とされたのは、娘美福門院加賀と藤原為経との間に生まれた隆信(永治二年生、絵師として著名)のみで、久安五年一〇月一〇日に九才で女院蔵人に補任され、三年後の仁平三年四月に初めて若狭守に補任されている。親弘の生年や母は不明であるが、保延元年(一一三五)一二月二五日に文章生藤親弘が民部少丞に補任されている。この年に得子は第一子叡子内親王を産み、翌二年四月一九日に従三位に叙せられている。得子の乳母夫で親弘の父親忠が一一月四日に初の受領である安房守に補任されている。

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