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2019年4月 2日 (火)

隠岐国における庄園制の成立3

 文治四年に問題となったのは平家没官領である島(道)後の犬来牧と島(道)前の宇賀牧が関東御領とされ、預所兼地頭として起用された源頼政の娘を妻とした藤原重頼が、中村別符など他の所領も没官領だと主張して、一旦は認められたことである。その後、関係者の証言により没官領でないことが明らかとなったため、重頼の行為は押領と認定され、朝廷が幕府に押領の停止を命じたものである。
 牧は本来牛馬の飼育を主な目的として設定されたものであるが、宇賀牧が後に宇賀郷と呼ばれ、守護佐々木氏が地頭に補任され守護所が置かれたように、領域的庄園・公領に発展するケースも多い。待賢門院の御願寺円勝寺に寄進され成立した遠江国質侶庄もその前身は質侶牧であった。犬来牧と宇賀牧も実質的には庄園としての実態を備えていたと思われる。摂関家領としても摂津国垂水庄には東牧と西牧が含まれていた。
 前に述べたように、安元二年正月に藤原惟頼が隠岐守に補任された際には、松殿基房が知行国主であったと思われる。問題となった二つの牧は天承元年以前か惟頼が隠岐守であった際に松殿基房領として成立し、平家のクーデターにより平家領となったのではないか。不透明な点が多いが、待賢門院の御願寺が相次いで造営された大治年間に摂関家領も誕生し、次いで藤原惟頼が隠岐守であった安元二年以降に牧の設定がなされたのではないか。知布利庄と重栖庄も清盛の娘盛子が摂関家領を相続したことで平家関係者が庄官となり、後に没官領として東国御家人が地頭に補任されたのであろう。
 隠岐国の庄園としては山田別宮と美多庄がある。前者は保元三年と元暦二年の八幡宮領のリストにみえないので、それ以降の成立であろう。後者については鎌倉後期以降の史料しか残っておらず、庄園領主名、成立時期ともに不明である。


 

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