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2019年4月11日 (木)

憲方・光房・経房3

 前にも述べたように統子内親王の移渡の中心となったのは大蔵卿藤原通基と越中守資賢と憲方であった。資賢は白河院司で、鳥羽院庁別当ならびに統子内親王時の斎院長官であった有賢の子である。有賢は待賢門院の御願寺法金剛院塔の供養が行われた保延二年一〇月五日の勧賞で前斎院(統子)分として従三位に叙せられている。資賢は鳥羽院と美福門院の別当であるが、保元四年二月一九日の上西門院昇殿始では殿上人として「修理大夫資賢」がみえている。そこには「刑部卿憲方」とともに「左衛門権佐頼憲」もみえる。資賢の異母(平正盛娘)弟宗賢は待賢門院が出家した際に遁世したが、藤原頼長は『台記』の中で、人となりは優であり、大変な賢者であると、その遁世の愚かさを歎いている。
 宗賢は藤原清隆の同母弟範隆の後任の甲斐守であった。範隆は元永元年一月の女御璋子の立后時に、白河院蔵人から中宮権少進に補任され、元永二年一一月一一日には崇德天皇の蔵人に補任された。保安五年に藤原宗兼(池禅尼兄弟)の後任として和泉守に補任され、大治三年正月に甲斐守に遷任し、大治四年一二月供養の白河院の御願寺法勝寺内御堂の造進を行っている。次いで大治五年四月に藤原聖子が立后した際の除目で左馬権頭に補任された。しかし、長承二年(一一三三)八月二七日に三七才で死亡したため、九月に父有賢が但馬守を辞して子宗賢の甲斐守補任が実現した。父有賢が知行国主であったと思われる。保延三年(一一三七)一二月に甲斐守が重任しているが、宗賢のことであり、任期満了により永治二年正月に皇后宮(藤原泰子)権大進藤原顕遠に交替している。顕遠は為隆・顕隆の同母弟長隆の子であった。長隆は兄為隆と同様、摂関家家司であったが、顕遠が二歳時に死亡した。

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