koewokiku(HPへ)

« 相模国は美福門院分国か5 | トップページ | 憲方・光房・経房2 »

2019年4月11日 (木)

憲方・光房・経房1

 藤原憲方は為隆と藤原有佐の娘の間に生まれた。同母弟が光房である。元永元年(一一一八)四月三日に大学助憲方が蔵人に補任されているが、そこでは一四才と一三才との異なる情報が記されているが、他の情報を勘案すると長治二年(一一〇六)の生まれとなる。弟光房は三才下で天仁二年(一一〇九)の生まれである。六月八日には白河院皇女で前斎院禛子親王からの申請が認められ憲方が叙爵している。
 祖父有佐は受領を歴任し、その娘には為隆の妻とともに藤原知信の妻もいた。知信の子為忠の妻なつともは白河院の最後をみとった一人で、待賢門院女房安芸と呼ばれた。有佐の従兄弟敦兼は母兼子が堀河天皇の乳母となったこともあり、白河院近臣となり、鳥羽院と待賢門院の別当にもなった。憲方の異母弟憲光は元永二年六月一九日に待賢門院の長子顕仁親王(崇德)家の職員が補任された際に、蔵人となっている。為隆の同母弟で「夜の関白」と呼ばれた顕隆とその嫡子顕頼は政所別当に補任されている。
 憲方は保安二年(一一二一)一二月二九日に父為隆が遠江守を辞退する替として出雲守に補任された。一六才であり、出雲国は父為隆の知行国となった。天治元年五月二一日には御仏供養がなされているが、中納言某、播磨守藤原家保、頭中将藤原忠宗が競うように仏像を造進する中で出雲守憲方も等身六字天一体を増進している。為隆は院との関係が強かった弟顕隆と異なり、摂関家家司を務めていた。
 憲方の同母弟光房は正六位上であった元永三年(一一二〇)に大膳亮に補任されている。その補任請状を花山院家忠が光房を「蔭孫」と呼んで出しているが、家忠の母と光房の父為隆の母は姉妹(源頼国の娘)であった。光房は兄憲方から四年遅れて一七才である天治二年(一一二五)一月二八日に初の受領である摂津守に補任されている。光房は大治二年(一一二七)一一月一四日には鳥羽院の第四皇子(雅仁=後白河)の家司に、大治五年二月二一日には崇德天皇の中宮に立后された藤原聖子の中宮少進(大夫進)に補任されている。光房が院とともに、為隆の後継者として摂関家との関係を有していたからであろう。これに対して憲方は摂関家との関係はうかがわれない。

補足:元永二年六月一九日に定められた顕仁親王(崇德)家職員の中に、蔵人として為隆の子文章生憲光がいる。

 

« 相模国は美福門院分国か5 | トップページ | 憲方・光房・経房2 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 相模国は美福門院分国か5 | トップページ | 憲方・光房・経房2 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ