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2019年4月 2日 (火)

隠岐守平繁賢

 一二世紀の隠岐守について述べたが、この平繁賢について言及していなかったので確認する。繁賢は越後平氏維貞の子で、康和五年(一一〇三)四月八日に来る二二日の斎院御禊の前駈が定められたが、その中に「平繁賢」がみえ、その時点では右衛門尉であった。次いで嘉承二年(一一〇七)正月には検非違使宣旨をうけている。四月一六日の関白忠実の賀茂詣では忠実の車の後に付いていた。そのため、忠実が高陽院に帰宅した際には忠実から馬を与えられている。永久二年三月一五日には院に対する詐欺犯人を使別当のもとに連行し(中右記)、七月二六日には比叡山大衆を抑えるため八瀬方面に派遣されている(同)。
 さらに繁賢は大江行重、源重時、藤原盛重ら検非違使六人として祭礼などの警固にあたっている。久安三年(一一四七)七月一九日に鳥羽法皇が源氏・平氏の輩を観覧しているが、そこに河内守源季範、左衛門尉源光保、源近康、源季頼、源為義、前右馬助平貞賢とともに「隠岐守平繁賢」がみえる。「国司一覧」で「前隠岐守ヵ」としているように、この時点の隠岐守は藤原信盛であり、繁賢の経歴、年齢を勘案すると、元永元年正月補任の藤原実盛の前任ではないか。隠岐守は源義親が六位で補任された対馬守と同様、六位の検非違使でも補任可能なポストである。
 後白川(河)院北面歴名には繁賢(後述の子孫も)はみえず、その活動時期は白河院と鳥羽院の時代であったと思われる(仁平三年閏一二月二八日死亡=本朝世紀)。保元の乱にはその子右衛門尉維繁が天皇方の命令を受けて平基盛(清盛の子)、源義康とともに参入しており、後白河天皇方であった。次いで、維繁の甥にあたる繁雅が元暦元年二月には頼朝に平家没官領となった信濃国東条庄内狩田郷領主職が本領であると愁訴して、返されている。後白河院方であったため、平家のクーデターで本領を没収されたのであろう。

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