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2019年4月11日 (木)

憲方・光房・経房4

 顕遠は二二才であった天承元年正月一四日に鳥羽院判官代から崇德天皇の蔵人に補任され、翌年正月に叙爵している。長承三年三月一九日に中宮権少進、一一月二六日に摂津守に補任された。翌保延元年一二月に皇后宮権大進に進んだ。ここまでは父長隆と摂関家の関係が強かったと思われるが、永治元年一二月二六日に従五位上に叙せられたのは鳥羽院御給であり、次いで翌二七日には皇后宮(得子)権大進に補任され、鳥羽院と皇后得子との関係を深めた。永治二年正月に甲斐守に補任されたのは、待賢門院系の源宗賢から鳥羽院・得子系の顕遠への交替であった。鳥羽院の判官代にもなり、康治二年正月三日には朝覲行幸の賞として正五位下に叙せられている。
 話を光房に戻すと、久安五年一〇月二日に美福門院殿上始がなされたが、殿上人として右衛門権佐憲方(正五位上、別当でもあった)と左少弁光房(従五位上)がみえている。一方、久安六年二月二七日に皇太后聖子は院号宣下により皇嘉門院となるが、その判官代として光房がみえる。皇嘉門院は忠通の娘であり、摂関家との関係で中宮少進に起用されて以来のものであろう。
 久安四年正月には光房の子信方が伊豆守に補任されており、光房が知行国主であったと思われる。ところが、仁平元年に信方が死亡したため、同年七月二四日に異母弟経房が伊豆守に補任された。経房は久安六年(一一五〇)六月九日に九才で蔵人に補任されたが、それまでは摂政(忠通)家勾当であった。伊豆国は父光房の知行国であったと思われるが、久寿元年一一月一〇日に四六才で所労のため死亡している。それにもかかわらず経房は伊豆守に現任し続けており、義父平範家が知行国主を継承したと思われる。保元二年(一一五七)八月二一日には一六才で勘解由次官に補任されたが、前任者で妻の兄弟である平親範が右少弁に転じた替りの人事であった。

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