koewokiku(HPへ)

« 隠岐国における庄園制の成立1 | トップページ | 隠岐国における庄園制の成立3 »

2019年4月 2日 (火)

隠岐国における庄園制の成立2

 前隠岐守某は一一世紀末から一二世紀初頭のある時期に隠岐守であった可能性が高いとする。具体的には承徳二年正月二七日以前に退任した平正盛と嘉承元年に補任が確認できる某延行の間の時期ではないか。承徳元年八月二五日に隠岐守平正盛は伊賀国山田村と鞆田村の田畠家地を注進し、翌年には白河院が娘の菩提を弔うため建立した六条院に寄進・立券している。またこの時期には源義家の子義親が九州での濫行により隠岐国に配流されていた。
 平正盛の隠岐守補任とその後の源義親の乱平定を契機に、隠岐島が平家の支配下に入ったとの説が述べられるが、何の根拠もない憶測である。当時の正盛の地位も理解されていない。正盛は隠岐守から若狭守に遷任したのではなく、隠岐守退任と若狭守補任にはタイムラグがある。
 保安年間には摂関家領と家司による行事費用を分担を定めた「執所抄」が作成されており、忠実による摂関家領の集積・整理が進行していた。天承元年八月には、伊勢国(守源清雅ヵ)、和泉国(守藤原宗兼)、隠岐国(守大江行重ヵ)、壱岐国(守不明)、筑後国(守紀成忠ヵ)、筑前国(守藤原公章)から新立庄園の問題で訴えが出され、政府で前後策が協議されている。天承の前の大治年間は待賢門院の御願寺円勝寺(六勝寺の一)と法金剛院の造営が開始され、院への庄園寄進が容認されるようになった時期である。
 隠岐国における摂関家領としては近衛家領目録に冷泉宮領としてみえる知布利庄と摂籙渡庄目録に法成寺領としてみえる重栖庄がある。前者は一一世紀中頃の成立とされ、後冷泉宮→忠実→高陽院と継承されたというのが通説であるが、やはり忠実の時代に組み込まれたものではないか。後者も法成寺創設時ではなく、忠実の時代の成立ではないか。この時期に排他的領域を持つ庄園が次々と立券される動きがあり、それに対して天承元年に白河院主典代でもある大江行重が訴えた可能性が高い。

« 隠岐国における庄園制の成立1 | トップページ | 隠岐国における庄園制の成立3 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 隠岐国における庄園制の成立1 | トップページ | 隠岐国における庄園制の成立3 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ