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2019年4月13日 (土)

揖屋庄領家再論

 建久一〇年四月日揖屋庄領家政所下文の主は藤原範季としたが、実際に当時七〇才であった範季は健在であり(『公卿補任』)、推定には問題がない。右衛門尉惟宗については、後白河院の北面の歴名に惟宗氏が複数名みえており、この中に該当する人物がいる可能性はあるが、不明とせざるを得ない。
 後白河院庁の主典代大江景宗もまた北面歴名の中にみえている。ただし、文治三年六月一四日院庁下文には「主典代織部正兼皇后宮大属大江朝臣」と署名しているが、文治四年二月二六日院庁下文では「主典代織部正大江朝臣」に変化している。
 当時の皇后宮について確認すると、後白河院の第一皇女亮子内親王である。寿永元年八月一四日に安徳天皇の准母とされ皇后宮となった。天皇の母徳子は前年一一月二五日に院号宣下により建礼門院となっていた。その後、平家が都落ちをすると、安徳に替わって即位した異母弟後鳥羽の准母にもなった。この亮子内親王が文治三年六月二八日に院号宣下により殷富門院となったため、景宗の肩書きから皇后宮大属がなくなったものである。
 皇后宮大夫は三条実房(公教の子)、皇后宮権大夫は文治元年四月二五日に徳大寺実守が死亡すると、兄実家(ともに公能の子)に交替していた。亮子内親王の母は藤原季成の子であるが、季成は三条実行、徳大寺実能、待賢門院の異母弟であった。閑院流三条家の当主で藤原清隆の娘を母とする実房と、特大寺家当主実定の同母弟である実家・実房兄弟が亮子内親王を支えていた。
 揖屋庄領家政所下文には「散位皇后宮大属」あるが、正しくは「散位前皇后宮大属」の誤りであろう。後白河の北面から主典代となった景宗が、その母待賢門院の実家である閑院流の公卿と関係を持ち、待賢門院の子崇徳院の最側近藤原(日野)資憲が崇徳御願寺成勝寺に寄進して成立した揖屋庄の支配にかかわっていたのであろう。
 以上のように、揖屋庄領家職が日野資憲からその娘と平教盛の間に生まれた教子とその夫藤原範季に継承されたことと、別当の一人(前)皇后宮大属が後白河北面で主典代であった大江景宗であることが確認できた。

 

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