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2019年4月 2日 (火)

隠岐国における庄園制の成立1

 永久三年(一一一五)四月二八日丹後国留守所下文、この文書は東寺領大山庄の検注に関するものであるが、署判者の一人に「目代前隠岐守藤原朝臣」がみえることが注目される。当該日時点の丹後国は藤原忠実の知行国で、その家司源師俊(三六才)が丹後守であった。
 師俊は源俊房の子であるが、兄弟で御三条天皇の子輔仁親王の護持僧であった仁寛が鳥羽天皇の暗殺を企てたとされたこと=永久の変(一一一三)を契機に、村上源氏の主流は師房の弟顕房流に変わった。俊房四六才時の子であるためか、叔父師仲の養子となっている。美福門院の母(実母ではありえないが)方子も師俊の姉妹であった。
 師俊と忠実との関係を示す事例としては、嘉承元年(一一〇六)三月一四日に昇殿を認められた師俊(元俊仲)が六月一日に初めて参内し慶賀を申した際に、忠実が牛を貸し与えていることがある。また翌二年五月三日に摂関家領和泉国信達庄が兵部権大輔師俊の母(平重経娘)に預けられている。永久四年には尾張守に遷任するが、同五年六月四日には師俊が白河法皇に馬四疋を献上した際に、忠実が仲介をしている。その後は弁官として昇進を重ね、蔵人頭兼右大弁をへて長承二年に参議として公卿に列する一方、忠実の娘で鳥羽院に入内した泰子(高陽院)の皇后宮権大夫を務めている。
 師俊の子で公卿に進んだものはなかったが、その娘は忠実の子頼長との間に嫡子兼長を産み、別の娘は忠実ならびに高陽院の近臣源雅国との間に国保を産んでいる。
 話を前隠岐守某に戻すと、彼も摂関家家司であった可能性が高い。家司には複数の国司を歴任するものと、国司は一期のみで、後は目代や摂関家領の預所などを歴任するものがあるが、前隠岐守某は後者であり、必ずしも直近の時期に隠岐守であったとは限らない。元永元年(一一一八)正月に隠岐守に補任された藤原実盛については前に述べたが、一七年後の保延元年(一一三五)八月一八日には「隠岐前司実盛」が放生会前駈闕により勘当され(『長秋記」)、二七年後の久安元年(一一四五)閏一〇月三〇日に「前隠岐守藤原実盛俄出家」(『本朝世紀』)とある。春日祭に動員されたが、負担に堪え難しとして出家したとされる。また隠岐守退任以降、散位であったことがわかる。隠岐守退任後、国衙目代や庄園管理者として十分な実績を上げられなかったのであろうか。

 

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