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2019年4月 7日 (日)

相模国は美福門院分国か1

 元木泰雄氏①「源頼朝」(『治承~文治の内乱と鎌倉幕府の成立』二〇一四)、②『源頼朝』(二〇一九)には相模国が美福門院の分国であるとの記述がみられる。①では「とみられる」と推定であったが、②では「分国となる」と断定的に述べてある。五味文彦氏の研究では含まれていなかったので、検討してみたい。時期が明記していないが、義朝が美福門院とその背後にある鳥羽院と接近したことで下野守に補任されたとされているので、分国となったのは仁平三年以前のことになる。
 元木氏論文①の当該部分には③『河内源氏』(二〇一一)と④『平清盛と後白河院』(二〇一二)が典拠とされていたので確認すると、④には「庄園寄進を通じて美福門院に接近した上に、室の実家熱田宮司家が後白河の母待賢門院側近である義朝」という表現がみられるのみである。これに対して③には詳細な具体的記述がある。
 最初に、天養元年(一一四四)の大庭御厨への義朝の濫行を相模守藤原頼憲が黙認したのは、頼朝と頼憲の間に連携があったからだとした上で、頼憲は鳥羽院近臣(仁平二年一二月五日に判官代頼憲とみえるが、翌三年正月五日に紀伊守頼憲が正五位下に叙せられたのは統子内親王給である)であったから、知行国主は鳥羽院またはその周辺であろうと述べられている。頼憲は憲方の子で、母は父の従兄弟で院近臣として著名な顕隆の娘である。保延三年三月に蔵人頼憲の叙爵が申請され認められている。その前年に死亡した白河院の女御道子の給分を合わせてのものであった。この一〇年後の義朝の叙爵は女御道子の子善子内親王の合爵であった。
 康治二年四月九日には藤原顕能の子蔵人右近将監重方が、故善子内親王合爵で叙爵している。重方は仁平二年三月八日には前斎院(統子内親王)御給で従五位上に叙せられ、翌三年九月一八日には二位宰相となった藤原兼長が前斎院のもとを訪れた際の取次として「職事宮内少輔重方」がみえており、統子内親王の職事であった。その妻は藤原清隆の娘である。重方は同四年には鳥羽院判官代であったことも確認できるが、久寿二年一〇月二六日には後白河天皇に入内した女御忻子の家司に補任されている。忻子は待賢門院の甥徳大寺公能の娘であった。保元の乱後の保元元年一〇月二七日に忻子が立后され中宮となると、頼憲は中宮大進、重方は権大進に補任されている。中宮亮に補任された藤原顕長は顕能の弟であるが、同じ日に待賢門院未給として従四位下に補任されている。


 以上により、白河院関係の女御・内親王の給分で合爵しているのは、待賢門院関係者であることと、それに藤原清隆が関わっていることが確認できた。


 

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