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2019年4月22日 (月)

佐陀庄の領家とその関係者2

 同年一〇月二六日には崇德天皇の御願寺成勝寺の供養が行われ、待賢門院の従兄弟となる藤原実衡(四〇才)と藤原伊通の弟重通(四一才)が中宮聖子給として右中将に補任されている。翌六年一月二日には待賢門院の異母弟である参議季成が従三位に叙せられたが、女院給であった。閏五月には法成寺西塔等が落雷で焼け、山門の僧兵により園城寺が焼かれている。一〇月二日に大殿忠実が出家し、一五日には二三才の佐藤憲清が出家した。西行法師である。その前日に誕生したのが崇德天皇の第一皇子重仁であった。その親王宣下が崇德天皇の譲位間際に行われたのは、中宮聖子とその父忠通への配慮であった。聖子の男子出産の可能性と崇德退位のタイミングを計って親王宣下がなされたものであり、これを重仁が当初後継者として考えられていなかったというのは誤りである。
 一〇月二七日には鳥羽天皇の皇后藤原泰子が新造なった正親町傳に遷御した。鳥羽院とともに得子の第一皇女叡子内親王も同道したが、叡子内親王は泰子の養女となっていた。一一月四日には藤原顕頼が造進した新土御門内裏に崇德天皇が遷御している。この直後に一つの事件が起きている。頼長が辞したため空席ができた左大将に対して、鳥羽院が権大納言雅定(四七才)の起用を崇德天皇に求めていたが、待賢門院の異母兄三条実行(権大納言、六一才)と同母兄徳大寺実能(権大納言、四五才)からも補任希望が出ていたため、天皇が態度を保留していた。これに対して、一一月二六日夜に天皇のもとを訪れ、直談判で雅定への大将宣旨を出させたのである。崇德天皇も二三才になっており、独自の判断が可能となっていた。これを契機に鳥羽院が崇德の退位と近衛の即位を決断したとされる。
 これは院と天皇との間では当然生じる時代であり、それゆえに院は天皇の退位と新天皇の即位を行った。後白河院の時期も同様であった。本院と退位した新院との間でも生じる問題である。大治四年正月には、正四位下左近中将藤原成通(伊通の弟)を従三位の叙する指示を白河院が出したが、これは鳥羽院の了解を得たものではなかったため、待賢門院が白河に対して諫言をし、結果的に叙位は行われなかった。成通は褒貶半ばする人物であったとされ、白河の判断に同意できない鳥羽が待賢門院を通じて働きかけたものである。白河は諫言を容れながらも半月にわたって両院の行幸を拒否し続けた。この半年後に白河が急死していなければ、事態はさらに悪化したであろう。

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