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2019年4月19日 (金)

藤原伊通について2

 宗通の死亡により、養子時通が国守であった因幡国は、時通の実父長実の知行国となり、時通はその後も長実の知行国備後国と伯耆国で国守を務めていく。長承二年八月一九日に長実が死亡した後も伯耆守としての時通の地位に変更はなかったが、長親の備後守とともに、保延二年正月で交替し、その後長実の子が国守になることはなかった。
 大治三年一二月日待賢門院庁牒の署判者に「左近権中将藤原朝臣」として成通(一〇九七生)がみえる。長治三年正月に一〇才で叙爵し、嘉承二年一二月に侍従、天永三年には蔵人と受領を経ずに昇進したが、失言の多さから蔵人頭には起用されず、兄達より遅れて天承元年(一一三一)に三五才で参議となった。
 以上のように伊通が兄弟のトップの地位にあり、大治二年には参議兼右兵衛督に加えて中宮権大夫となった。同母姉宗子が忠通の間に生んだ姪の聖子が崇德天皇の中宮になったことによったが、大治五年一〇月に母の同母弟長実が権中納言に補任されたことに納得できず、三職を辞して籠居した。長実が一八才年長であるが、参議補任は伊通が七年早く、長実は前年に公卿になったばかりであった。伊通が復帰したのは長承二年八月に長実が死亡した後で、九月に権中納言に補任された。嫡子為通が崇德天皇の侍従として重用されていたこともあって、伊通の昇進に籠居の影響はほどんどなかった。翌年二月には蔵人頭兼右中将で中宮権亮であった重通が参議に補任され三六才で、兄伊通・成通とともに公卿となった。この間、中宮大夫は藤原宗忠から源能俊に交替し、伊通の後任の中宮権大夫は花山院忠宗・藤原宗能(宗忠子)をへて、藤原師実の子忠教に交替している。
 伊通は保延二年一二月に中納言に進み、右衛門督と検非違使別当を兼ねた。この間、伊通に特記すべき点はなかったが、崇德天皇譲位直前の同七年一二月二日には権大納言に補任された。同日には崇德天皇と兵衛佐局との間に生まれた重仁に親王宣下がなされているので、崇德の中宮聖子の叔父である伊通の立場に影響した可能性がある。康治二年正月には鳥羽院別当として、近衛天皇が鳥羽法皇御所に御幸した際の勧賞として正二位に叙せられている。


 

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