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2019年4月24日 (水)

源雅頼・兼忠父子3

 雅頼は仁安四年一二月三〇日には参議から権中納言に進んだが、安元二年七月一七日に六条院が一三才で死亡したこともあって、高倉・安徳天皇のもとでは昇進していない。雅頼が脚光を浴びるのは治承四年八月一七日に伊豆に配流されていた源頼朝が挙兵に成功してからである。雅頼の家臣中原親能が、頼朝と朝廷の連絡役を務め、後に幕府に仕えた。頼朝の死後には、二代将軍頼家に代わって幕政を主導した十三人の合議制のメンバーでもある。親能はその妻が雅頼の子兼忠の乳母となった関係で雅頼の家臣となったとされる。雅頼は寿永二年二月二一日には正二位に叙せられた、
 兼忠は藤原家成の娘を母として永暦元年(一一六〇)に生まれた。一二才年長の異母兄兼定がいたが、母の実家の関係で兼忠が嫡子の扱いを受けたとされる。長寛二年(一一六四)一〇月にわずか五才で前美福門院保元元年未給分として叙爵した。仁安三年一一月二〇日に大嘗会における父(備中権守)の功への勧賞を譲られて兼忠が叙爵した。侍従補任の背景については前述の通り。鎌倉幕府が名実ともに成立した文治元年一二月二九日には鳥羽天皇の蔵人頭に補任され、建仁二年七月二三日には父と同じ権中納言に補任された。その妻には待賢門院の娘上西門院の院分国能登で国守、知行国主をつとめた持明院基家の娘がいた。
 これまで待賢門院との関係が深い人物をみてきたが、その多くは保元の乱後は二条院・六条院派に属していている。平治の乱の首謀者との関係も深い。

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