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2019年4月19日 (金)

藤原伊通について3

 久安四年には伊通の娘で一八才の呈子が美福門院の養女となっている。美福門院は崇德の子重仁親王を養子としており、雅仁(後白河)の子孫王が養育されていた。孫王は母懿子が出産直後に死亡したためであり、親王宣下をうけないまま、九才で仁和寺に入った。伊通の立場が大きく動いたのは久安六年で、左大臣頼長養女(妻の同母弟徳大寺公能の娘)多子が近衛天皇のもとに入内したのに対抗して、同母姉宗子の夫忠通が呈子を養女として入内させたことである。三月に立后した多子に続いて、六月には呈子も立后し、多子が皇后、呈子が中宮と呼ばれた。
 多子が一一才であったのに対して呈子は二〇才であり、呈子が先に皇子を産む可能性が高かったので、頼長にとっては大打撃であり、これをうけて両者の父忠実は忠通を義絶し、頼長に氏長者の地位を譲った。元木泰雄氏は伊通が顕季の縁者として得子に接近していったとするが、久安四年時点での選択は様々な可能性を持つものであった。伊通の父宗通が養子としたのは長実の子時通であったが、長実の子たちは、得子を寵愛した鳥羽院のもとでは排除されていた。また、近衛天皇が死亡する前までは、崇德の子重仁が後継として即位するとの予想が一般的であった。美福門院一派と崇德の外戚である閑院流の対立という単一の観点では事態は説明できない。氏が美福門院一派とした源雅定、藤原家成の立場もそう単純なものではない。鳥羽院の近臣として美福門院に仕えるのは当然である。ただし、まもなく鳥羽院に代わって崇德院が主導権を握る日が近づいていた。忠通は頼長の争いに勝利せんとし、美福門院は暲子内親王を初めとする子達の近衛天皇以後の行く末を案じていただけである。

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