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2019年4月17日 (水)

藤原尹通について1

 尹通は大治三年(一一二八)から四年にかけての石見守尹経の父である。保安三年四月二日に四三才で死亡しており、承暦四年(一〇八〇)の生まれとなる。その生涯を確認しつつ、石見国が待賢門院分国となった背景をみていく。
 『大日本史料』第三編二九の解説(『東京大学史料編纂所報』第四九号)には尹通について以下のように記されている。
 藤原尹通は南家の出で、文章生・得業生として鳥羽天皇の東宮時代から蔵人となり、検非違使を兼ね、受領を歴任し中宮(璋子)大進となった。安芸国司であった間に署判を加えた文書も残り、これまでにも指摘があるように、高田郡関連の文書群には正文であるか疑点は残るものの、何らかの根拠のあるものとみられる。
 尹通は承徳二年(一〇九八、一九才)に氏院(勧学院)学問料を与えられ、康和四年に白河院蔵人となり、翌五年(一一〇三、二四才)一二月二六日には東宮蔵人であった尹通が文章得業生に補任されている(『中右記』)。嘉承二年(一一〇七、二八才)正月一〇日には問頭藤原敦光により秀才尹通(文章得業生正六位上行越前大掾)が献策をうけている。七月一九日には堀河天皇の蔵人に補任され、一二月一日の鳥羽天皇即位の際には勅使蔵人として参入し、二二日の饗でも蔵人頭藤原為隆のもとで乾盃を行っている。次いでその勧賞として左衛門尉に補任された。
 天仁三年から永久六年まで安芸守であった。天永二年(一一一一)四月一八日の賀茂祭からの帰りで、斎院(白河院の第四皇女禛子内親王)の車の前駈を安芸守尹通が務めている。同年一〇月五日歌会には五位の儒者として参加しているが、安芸守補任前には叙爵していたと思われる。安芸守としては天永三年と永久二年には「大介」として国司庁宣に署判を加えている。永久元年(一一一三、三四才)正月一日に一一才の鳥羽天皇が元服しているが、その儀式に殿上人の童で元服した者を招いているが、その中に安芸守尹通子がみえる。天皇と同年生まれの知通(後述)であろう。また、同年一二月二一日には白河法皇が方違のため尹通の鳥羽南第を訪れている。翌年(三五才)正月五日に策により従五位上に叙され、一一月二九日には白河法皇の白河新御願寺供養に伴う勧賞により前斎院(禛子内親王)家司尹通が正五位下に叙せられている。永久五年二月一二日にも白河法皇が方違のため安芸守尹通第を訪れている。
訂正:蔵人頭に補任されたのは藤原伊通であり、訂正した。

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