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2019年4月24日 (水)

源雅頼・兼忠父子1

 源雅頼については、雅定の養子となった弟定房との関係でその経歴の一部を述べた。長承二年(一一三三)三月四日に七才で叙爵したのは後三条天皇の母禎子内親王(陽明門院)給分としてであった。陽明門院は後三条が白河の後継者に指名した実仁・輔仁を守る立場にあり、雅頼の立場を示している。雅頼の母方の祖父俊明は後三条天皇の側近として重用され、その子白河院に対しても直言をしたことで知られている。雅頼は同四年正月八日には治部大輔に補任され、保延七年(一一四一)正月七日に従五位上に叙せられたのは治部大輔労であったが、一七才だった康治二年(一一四三)一一月八日に父雅兼が死亡したこともあってその後の昇進は遅れた。
 久安四年六月二三日に頼長の子侍従兼長が慶賀のため土御門斎院(怜子内親王)のもとを訪れた際には、雅頼が取り次ぎをしている(『台記』)。怜子内親王は白河院の異母弟で後三条院が皇位継承者とした輔仁親王と、その母源基子の同母弟行宗の娘の間に生まれている。行宗は輔仁親王の側近であり、怜子親王のもとで斎院長官を務めたのは行宗の子雅重であった。また行宗の養女兵衛佐局が保延六年九月二日に崇德天皇の子重仁親王を産んでいる。雅頼が斎院に仕えていたのは、叙爵の経緯とともに、母方の祖父源能俊が待賢門院と子崇德院との間に密接な関係を有したからであろう。
 行宗は姉の子で白河の皇太弟とされた実仁親王が死亡し、白河が輔仁親王では無く、自らの幼少の子堀河に譲って院政を開始したことと、永久の変(一一一三)で輔仁が失脚したことで昇進は停滞した。それが保延四年正月二二日に大蔵卿に補任され、保延五年正月四日に崇德天皇が鳥羽上皇御所に朝覲行幸したことに伴う院賞として従三位に叙せられた(女院御給)。具体的年次は不明だが、この二回の除目に先立ち、待賢門院に昇殿を認められている。

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