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2019年4月15日 (月)

一一世紀の石見守3

 これに対して承徳元年(一〇九七)一〇月一七日に「前石見守宗季」(『時範記』)とみえるのは寛治二年(一〇八八)三月二三日の石清水臨時祭に派遣された近江守敦家の陪従としてみえる「前上総守橘宗季」である。宗季は承暦四年(一〇八〇)閏八月二五日に上総守に現任していた事が確認できる。宗季は橘成綱の子で、橘氏の氏長者以綱の甥にあたる。橘氏に対しては摂関家氏長者が橘氏の氏爵を行う是定の地位を得ており、父忠実から氏長者の地位を譲られた頼長は以綱の孫以長を橘氏の大学別曹である学官院の別当に補任している。
 承徳元年(一〇九七)正月三〇日には従五位下藤原隆仲が石見守に補任されている。康和三年(一一〇一)一〇月一日には石見守隆仲が忠実に牛二頭を送っているように、摂関家との関係が深かった。天永元年(一一一〇)三月一八日には「石見前司隆仲」が忠実の使者として春日社への奉幣に派遣されている。また天治二年(一一二五)一月二八日には隆仲は安房守に補任されている。康和五年(一一〇三)正月六日に「前石見守中原広宗」がみえるが、広宗も康和三年一二月二四日には摂関家家司に補任されている。隆仲の前任の石見守ではなかったか。広宗の孫広季の子ないしは養子とされるのが大江(中原)広元である。
 広宗と同日に職事に補任されたのが次に述べる定仲であった。天仁二年(一一〇九)八月二四日には「余(忠実)職事石見前司定仲、余前駈也」とある(『殿暦』)。嘉保元年(一〇九四)一二月二日には頭弁源師頼と一臈式部丞定仲が恐懼に処せられている。五節の舞姫参入時に帳台の戸を開け放しとしたため、万人に中が見えてしまうという失態があったためである(『中右記』)。隆仲と定仲はいずれも藤原国仲の子であり、国仲の養子となったのが永久二年二月から保安元年末にかけて石見守であった藤原盛重である。隆仲と定仲が摂関家との関係が深かったのに対して、盛重は白河院の寵臣となった。

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