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2019年4月19日 (金)

藤原伊通について1

 伊通は宗通と藤原顕季の娘との間に寛治七年(一〇九三)に生まれた。兄信通、弟季通・成通・重通、忠通の正室で皇嘉門院聖子の母である妹宗子はいずれも同母である。また母の同母弟長実の子時通が父宗通の養子となっている。
 康和二年(一一〇〇)正月五日に二歳年上の兄信通と伊通が同時に叙爵した。兄はその後康和四年正月に侍従に補任されるとともに昇殿を許され、二月には白河院の昇殿を許された。次いで六月には白河院別当に補任され、七月に従五位上に叙された。同六年正月には正五位下に叙せられるとともに、院司となり、長治二年正月には伊予介を兼ねた。その後、永久三年四月に蔵人頭、八月には参議に補任され二五才で公卿となったが、元永三年七月に病死した父宗通の後を追うかのように同年一〇月に病死した。
 伊通も康和五年に従五位上に叙されたが、長治二年(一一〇五)正月には院分国参河の国守と院判官代に補任された上で四月一〇日に侍従を兼ねた。嘉承元年一二月に備中守に遷任し、重任した上で永久元年正月まで務め、弟重通(一〇九九年生)と交替した。いずれも父が知行国主であった。
 父宗通は元永元年正月に璋子が立后されると中宮大夫となり、翌年六月に璋子の子顕仁親王家の勅別当に補任されたが、権右中弁であった伊通も政所別当に補任された。保安元年六月日白河院庁牒には、参議信通、権左中弁伊通、備中守重通が署判者としてみえる。その後、保安三年正月に頭弁から参議に補任され、病死した兄信通に代わって三〇才で公卿となった。
 弟季通(一〇九五年生ヵ)は嘉承元年(一一〇六)一〇月の前任者某の辞任を受けて美濃守に補任され天永二年正月まで一期四年務めたと思われる。就任時一二才であり、父宗通が知行国主として後見したであろう。天仁二年一二月二二日白河院庁牒には署判者として「判官代美濃守藤原朝臣」がみえるが、これが季通であった。季通は天永二年四月一四日には「左兵衛佐」となっている。そして天永三年正月に備後守に補任され、保安元年正月まで務めた。やはり父宗通が知行国主であったが、その後知行国は因幡国に遷り、養子時通が国守となった。備後守在任中の季通には璋子との密通疑惑が生じ、その後の出世が遅れたとされる。保安元年七月二二日に父宗通が死亡した際の『中右記』の記事では他の兄弟と異なり、季通のみ「前備後守」と記され、散位であった。

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