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2019年4月15日 (月)

一一世紀の石見守2

 長元四年(一〇三一)三月九日には実資が石見守資光に馬一疋を与えている。これも資光が赴任するためであろう。同年七月には石見守資光が提出した五ヶ条の申状に関するものであった。その後しばらく史料を欠くが、天喜四年(一〇五六)三月二九日には前石見守大中臣某がみえるが、系図上の比定はできない。源頼信も長元三年九月二日以前に甲斐守に補任されている。
 康平六年一一月三日には石見守清原真人が清原頼行を久利郷司職に補任している。この当時の石見守は系図で「石見守」と注記がある清原定隆であるが、その父は頼隆、伯父は頼澄であり、頼行も定隆の一族であろう。定隆の子縫殿助親信については、系図により記載内容が異なっている。清原系図では藤原永親の養子になったと記すが、藤原魚名流の系図では藤原親賢の養子とし、その子が美福門院乳母夫として自らだけでなくその子孫が女院分国の国守となった親忠である。
 親忠はその死亡記事から嘉保二年(一〇九五)の生まれであるが、その祖父とされる親賢が佐渡守に補任されたのは大治三年(一一二八)である。親賢は初の受領であったと思われるが、孫の生年からすると七〇才前後となってしまう。同じく親信の養父とされる藤原永親は三蹟の一人行成の子で、甲斐守在任中の永保三年(一〇八三)一月に死亡している。ただし藤原北家の系図には行成に養子親信がいたとの記載はない。要は美福門院の乳母夫親忠の系図上の位置は確定できないのである。その妻である美福門院伯耆についても、その父が伯耆守であった可能性はあるが、比定するには情報が不足している。
 話を戻すと、承暦元年(一〇七七)八月二二日に石見守藤原国房が病気のため出家している。その後任には一〇月三日に源致通が補任された。飛騨守の経験者であった(以上『水左記』)。応徳二年(一〇八五)に石見守に補任された藤原公房、寛治三年(一〇八九)一〇月四日に石見守現任が確認できる中原在国を含めて関連情報は確認できない。

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