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2019年4月

2019年4月25日 (木)

歴博概報Vol2の2

 益田氏と長野庄の関係については、「益田家系図写」(山口県文書館蔵)に長寛二年正月二七日に益田兼栄が高津本郷下司に補任されたと記されている。長野庄の成立以前なら高津本郷郷司であるべきだが、庄園に寄進された結果、領家が補任権を持つ下司となったはずであり、問題はない。この時点で長野庄が立券されたとの推定も可能だが、一二世紀前半から半ばにかけての石見守卜部兼仲、藤原宗長(ともに待賢門院分国)あるいは源国保(藤原忠実の知行国)の時代であろう。それに先行する藤原盛重、藤原資盛と藤原尹経の父尹通(ただし在任中の保安三年四月二日に四三才で死亡)はいずれも白河院の近臣であった。
 豊田郷の領域については既に述べたが、『概報Vol1』と渡邊氏論文では「中道」が俣賀村分割する際の境界ではないという自明の理がようやく確認されたが、豊田郷の領域とともに「中道」そのものも再検討が必要である。あくまでも横田下村の中道であり、大山氏の説いた豊田郷内を貫通する中道ではない。また、横田郷が明治期の安富を除く豊田村であるとの大山氏の誤りが踏襲されている」。
 『概報Vol2』には「また、横田町の武士内田氏の豊田郷内の所領「大岳」も同地(虫追)に地名として残っています。」というあり得ない記述もみられる。「大岳(嶽)」は文永八年四月三日内田西仏譲状に豊田郷を構成する所領の一つとしてみえ、元徳三年六月一〇日六波羅教書写では豊田郷内とみられる角村地頭によって押領されたことを豊田郷内の所領の地頭代である兼阿が訴えていることがわかる。角村が現在の隅村町と神田町であり、大岳(嶽)が現在は神田町の対岸にあり「大滝」であることは明白である。
☆この文は三月初めに書いて、諸般の事情で放置していたが、藤原尹通と尹経などその後に述べた部分と重複する部分を削除し、最小限加筆したものである。

歴博概報Vol2の1

 歴博のHPで『中世益田現地調査成果概報Vol2』が公開された。有意義であると思った点とともにいくつかの疑問を持ったので、以下で述べてみたい。
 今回は豊田郷とともに長野庄を構成する高津郷、飯田郷、虫追村の調査結果が述べられるとともに、発掘調査で得られた陶磁器の年代に基づき、益田本郷と東仙道の関係についても述べられていた。豊富な地図、写真、表が添付されており、読む者が理解・検証できるようになっている。
 論者が最も重要な指摘だと思ったのは高津川の本流が現在と異なり飯田町の西側を流れていた点であった。現在は高津川の両岸に分かれている飯田と角井の間では婚姻関係や本家・分家関係がみられるという。東側の現在の流路も小規模ではあるが存在し、飯田の地は河に囲まれた中州のような状況で、港湾機能があったとされた。
 一方で、飯田郷が長野庄内の益田氏の根本所領であるとされる点と、やはり庄内の益田氏領であった安富郷に長野庄政所が置かれた可能性が高いと述べられた部分は、根拠があるのかとの疑問を持った。また、東仙道地域が益田氏がはじめに本拠とした地域と考えられている事に言及する一方で、三宅御土居跡について、益田氏が本拠を置く以前から益田氏にとって重視された場所であると述べているのも、はるか以前に誤りであることが明らかになっている説であり、疑問である。
 三宅御土居のある場所には益田庄支配の中心となる政所が置かれていた可能性が高く、益田川の対岸土井町に庄官である益田氏館が存在したことは確実である。東仙道はあくまでも、益田氏惣領家領の大半が没収された文永末年~鎌倉末期までの益田氏惣領家の中心所領であった。

2019年4月24日 (水)

源雅頼・兼忠父子3

 雅頼は仁安四年一二月三〇日には参議から権中納言に進んだが、安元二年七月一七日に六条院が一三才で死亡したこともあって、高倉・安徳天皇のもとでは昇進していない。雅頼が脚光を浴びるのは治承四年八月一七日に伊豆に配流されていた源頼朝が挙兵に成功してからである。雅頼の家臣中原親能が、頼朝と朝廷の連絡役を務め、後に幕府に仕えた。頼朝の死後には、二代将軍頼家に代わって幕政を主導した十三人の合議制のメンバーでもある。親能はその妻が雅頼の子兼忠の乳母となった関係で雅頼の家臣となったとされる。雅頼は寿永二年二月二一日には正二位に叙せられた、
 兼忠は藤原家成の娘を母として永暦元年(一一六〇)に生まれた。一二才年長の異母兄兼定がいたが、母の実家の関係で兼忠が嫡子の扱いを受けたとされる。長寛二年(一一六四)一〇月にわずか五才で前美福門院保元元年未給分として叙爵した。仁安三年一一月二〇日に大嘗会における父(備中権守)の功への勧賞を譲られて兼忠が叙爵した。侍従補任の背景については前述の通り。鎌倉幕府が名実ともに成立した文治元年一二月二九日には鳥羽天皇の蔵人頭に補任され、建仁二年七月二三日には父と同じ権中納言に補任された。その妻には待賢門院の娘上西門院の院分国能登で国守、知行国主をつとめた持明院基家の娘がいた。
 これまで待賢門院との関係が深い人物をみてきたが、その多くは保元の乱後は二条院・六条院派に属していている。平治の乱の首謀者との関係も深い。

源雅頼・兼忠父子2

 雅頼は久安五年(一一四九)三月二〇日に近衛天皇の御願寺延勝寺供養に伴い、皇太后宮(得子)御給分としてようやく正五位下に進んだ。仁平二年一一月一五日には忠通の嫡子基実が慶賀のため所々を訪れているが、治部大輔雅頼も車の後に扈従している。そして九条殿に忠通の北政所(皇嘉門院の母)を尋ねた際には、職事雅頼が取り次ぎをしている。雅頼が皇嘉門院の父忠通とも関係を有していたためであろう。
 保元の乱をへて、雅頼が保元四年正月の正四位下叙位と翌永暦元年四月三日に正四位下叙位は五位蔵人兼左少弁であった父雅兼が天永三年七月二四日の鳥羽天皇の平野大原野行幸で行事を務めたことに対する賞であった。永暦元年(一一六〇)一〇月三日には後白河から皇位を継承した二条天皇の蔵人頭に補任されたが、同年一一月二三日には養母美福門院は死亡し、後白河院派と二条天皇派の対立が激化する。
 雅頼は長寛二年(一一六四)正月に参議に進む。翌永万元年七月二八日には二条院が死亡したが、その子六条院が死亡する安元二年七月一七日までは二条院・六条院派は健在であった。仁安二年二月一一日には従三位(鳥羽院天養二年未給)に叙せられ、翌三年正月一一日には六条天皇が閑院から大内に還御したことに伴い正三位に叙せられた。その一方で同三年一一月二〇日に一九才で叙爵していた嫡子兼忠が、承安二年一〇月二六日に養父俊定から譲られる形で侍従に補任された。実際に仁安二年三月二〇日から承安二年三月二六日にかけて源俊定が侍従であったことが確認できる(『愚昧記』)。俊定は父雅頼の母方の従兄弟俊雅(能俊嫡子)の子である。あるいは母(藤原家成の娘)が早世したために、俊定のもとで育てられたのだろうか。兼忠の同母兄弟(姉妹)は確認できない。いずれにせよ、雅頼・兼忠父子が能俊の子孫となお深い関わりを持っていたことがわかる。

 

源雅頼・兼忠父子1

 源雅頼については、雅定の養子となった弟定房との関係でその経歴の一部を述べた。長承二年(一一三三)三月四日に七才で叙爵したのは後三条天皇の母禎子内親王(陽明門院)給分としてであった。陽明門院は後三条が白河の後継者に指名した実仁・輔仁を守る立場にあり、雅頼の立場を示している。雅頼の母方の祖父俊明は後三条天皇の側近として重用され、その子白河院に対しても直言をしたことで知られている。雅頼は同四年正月八日には治部大輔に補任され、保延七年(一一四一)正月七日に従五位上に叙せられたのは治部大輔労であったが、一七才だった康治二年(一一四三)一一月八日に父雅兼が死亡したこともあってその後の昇進は遅れた。
 久安四年六月二三日に頼長の子侍従兼長が慶賀のため土御門斎院(怜子内親王)のもとを訪れた際には、雅頼が取り次ぎをしている(『台記』)。怜子内親王は白河院の異母弟で後三条院が皇位継承者とした輔仁親王と、その母源基子の同母弟行宗の娘の間に生まれている。行宗は輔仁親王の側近であり、怜子親王のもとで斎院長官を務めたのは行宗の子雅重であった。また行宗の養女兵衛佐局が保延六年九月二日に崇德天皇の子重仁親王を産んでいる。雅頼が斎院に仕えていたのは、叙爵の経緯とともに、母方の祖父源能俊が待賢門院と子崇德院との間に密接な関係を有したからであろう。
 行宗は姉の子で白河の皇太弟とされた実仁親王が死亡し、白河が輔仁親王では無く、自らの幼少の子堀河に譲って院政を開始したことと、永久の変(一一一三)で輔仁が失脚したことで昇進は停滞した。それが保延四年正月二二日に大蔵卿に補任され、保延五年正月四日に崇德天皇が鳥羽上皇御所に朝覲行幸したことに伴う院賞として従三位に叙せられた(女院御給)。具体的年次は不明だが、この二回の除目に先立ち、待賢門院に昇殿を認められている。

2019年4月22日 (月)

佐陀庄の領家とその関係者4

 鎌倉初期に佐陀庄領家としてみえる円雅の祖父花山院忠雅は家成の姉妹を母とし、一〇才時に父忠宗が死亡したため、家成の家で育てられた。忠宗は顕仁(崇德)親王家の侍所別当で、待賢門院別当でもあった。忠雅は大治四年に叙爵し、保延二年正月に母方の祖父藤原家保が参議を辞任することで右少将に補任され、四月には左近少将、六月には美濃守(知行国主は家成)に補任された。保延三年正月に女院未給分として従五位上、四月には院未給分として正五位下、一二月には従四位下に叙せられるとともに還昇を認められた。同五年正月には鳥羽院の行幸の賞として正四位下、八月には体仁の立太子に伴い春宮権亮に補任され、正四位下に叙せられた。譲位直前の崇德天皇のもとで正四位上と蔵人頭に補任され、それは近衛天皇のもとでも継続された。
 以上のような花山院忠雅を領家として佐陀庄が寄進・立券されたのであろう。藤原家成と藤原清隆が協力したことはいうまでもない。その後、忠雅の嫡子兼雅をへて、孫の円雅が継承したと思われる。兼雅は平清盛の娘を妻とする等、平家との関係を有したが、その娘は後白河院と結んで平家と対立した松殿基房や幕府と立場が近い九条兼実の嫡子良通の妻となっている。また、兼雅の嫡子忠経が一条能保の娘保子を妻としているが、その背景には忠宗・忠雅父子と待賢門院、ならびに藤原家成との関係があった。このあたりは、関東祗候人となった公家の分析をする中で、具体的に述べたい。
 元木泰雄氏による五味文彦氏『平清盛』(歴史叢書)の書評をネットで閲覧したが、大変詳細なものであり、元木氏による疑問が具体的に述べられていた。この時期の政治史は大変複雑で、且つ史料がすべて残っているわけではないので、それぞれが多くの異論(当然多くの同意を前提とする)があることになる。AIが導入されても同様であろう。本ブログでも元木氏の説への疑問を具体的に論拠に基づき述べているが、議論を重ねていくしかない。

佐陀庄の領家とその関係者3

 白河の死により治天の君となった鳥羽は前院の方針の一部を変更していく。両者の対立をみたが、院政を行った三人の中で、後白河にのみ資質の問題があったことが強調されているが、白河の政治に対しては『中右記』の記主藤原宗忠が、鳥羽の政治には藤原忠実の痛烈な批判があるように、三人それぞれに大きな欠陥があったというのが事実であるあろう。
 話を佐陀庄の問題に戻すと、康治二年八月一九日の太政官牒で佐陀社と一括して説明される上総国橘木社(庄)が、信西による安楽寿院への寄進に基づき庄園としての立券がなされようとしたのは保延七(永治元、一一四一)年であった。佐陀庄の立券も同時期であろう。その時点の上総守については、保延四年正月に補任された小槻師経であろうか。小槻家は実務の家であり、院への配慮なく対処したのであろうか。鳥羽院庁下文が出され、四至牓示を打つ段階で在庁官人と隣接する藻原庄から異論が出されたため、立券は完了しなかった。そのためか、康治元年(一一四二)一〇月には藤原季兼が上総守となっている。季兼は白河院の近臣で待賢門院と鳥羽院の別当を務めた敦兼の子で、久安五年三月に鳥羽院の近臣源資賢に交替している。まさに「上総御曹司」と呼ばれた源義朝が相馬御厨の対立に干渉したのは康治二年であった。元木氏は下総守藤原親通に注目されたが、上総守についても留意しなければならない。
 一方、当時の出雲守は保延四年一二月補任の藤原光隆で、待賢門院と鳥羽院の別当である父清隆が知行国主であった。出雲国佐陀庄の立券では上総国のようなトラブルは発生しなかったと思われる。康治元年八月一八日には出雲国在庁官人が杵築大社造営に関して、朝廷から庄園の本家・本所への課税命令を出すことを求め、光隆が解状を提出し、翌二年三月一九日に官宣旨が出されている。その背景にあったのが佐陀庄など大規模な領域的庄園が成立していたことであった。鳥羽院ならびに近臣清隆は両方の立場を使い分けているのである。ちなみにこの官宣旨には権右中弁藤原朝隆(親隆の兄)と太史小槻宿祢某(師経の父政重)の名が、同年八月一九日太政官牒には左中弁藤原資信と左大史小槻政重の名が記されている。

 

佐陀庄の領家とその関係者2

 同年一〇月二六日には崇德天皇の御願寺成勝寺の供養が行われ、待賢門院の従兄弟となる藤原実衡(四〇才)と藤原伊通の弟重通(四一才)が中宮聖子給として右中将に補任されている。翌六年一月二日には待賢門院の異母弟である参議季成が従三位に叙せられたが、女院給であった。閏五月には法成寺西塔等が落雷で焼け、山門の僧兵により園城寺が焼かれている。一〇月二日に大殿忠実が出家し、一五日には二三才の佐藤憲清が出家した。西行法師である。その前日に誕生したのが崇德天皇の第一皇子重仁であった。その親王宣下が崇德天皇の譲位間際に行われたのは、中宮聖子とその父忠通への配慮であった。聖子の男子出産の可能性と崇德退位のタイミングを計って親王宣下がなされたものであり、これを重仁が当初後継者として考えられていなかったというのは誤りである。
 一〇月二七日には鳥羽天皇の皇后藤原泰子が新造なった正親町傳に遷御した。鳥羽院とともに得子の第一皇女叡子内親王も同道したが、叡子内親王は泰子の養女となっていた。一一月四日には藤原顕頼が造進した新土御門内裏に崇德天皇が遷御している。この直後に一つの事件が起きている。頼長が辞したため空席ができた左大将に対して、鳥羽院が権大納言雅定(四七才)の起用を崇德天皇に求めていたが、待賢門院の異母兄三条実行(権大納言、六一才)と同母兄徳大寺実能(権大納言、四五才)からも補任希望が出ていたため、天皇が態度を保留していた。これに対して、一一月二六日夜に天皇のもとを訪れ、直談判で雅定への大将宣旨を出させたのである。崇德天皇も二三才になっており、独自の判断が可能となっていた。これを契機に鳥羽院が崇德の退位と近衛の即位を決断したとされる。
 これは院と天皇との間では当然生じる時代であり、それゆえに院は天皇の退位と新天皇の即位を行った。後白河院の時期も同様であった。本院と退位した新院との間でも生じる問題である。大治四年正月には、正四位下左近中将藤原成通(伊通の弟)を従三位の叙する指示を白河院が出したが、これは鳥羽院の了解を得たものではなかったため、待賢門院が白河に対して諫言をし、結果的に叙位は行われなかった。成通は褒貶半ばする人物であったとされ、白河の判断に同意できない鳥羽が待賢門院を通じて働きかけたものである。白河は諫言を容れながらも半月にわたって両院の行幸を拒否し続けた。この半年後に白河が急死していなければ、事態はさらに悪化したであろう。

佐陀庄の領家とその関係者1

 1~3でポイントとなる点は述べているが、若干の補足をしたい。保延年間にも鳥羽院と待賢門院(大治年間から開始)の御願寺造営が継続していた。保延四年(一一三八)八月一一日には鳥羽東新堂御所へ鳥羽院と三位殿=得子が初めて渡御している。この年の四月には美福門院の第二皇女が宣下を受けて暲子内親王となっている。後の八条院である。また、四月一九日には崇德天皇が小六条から土御門殿に還御しているが、これは伊賀守であった藤原光房が功として修造したものであった。ただし、七ヶ月後には焼失し、天皇は再び小六条に移っている。
 翌五年二月二二日には鳥羽東殿三重塔の供養が行われている。後には安楽寿院と呼ばれる鳥羽院の御願寺で、塔は寵臣右兵衛督藤原家成が造進した。三三才の家成は家保の子で、長実の子である得子とは従兄弟同士である。佐伯智広氏の研究では、白河院が崇德の近臣の核に家成を考えていたが、鳥羽院がそれを奪い取ったかの評価がなされているが、誤りである。家成は鳥羽院と崇德天皇の近臣であった。ただし、白河院(本院)と鳥羽院(新院)の関係と同様、治天の君である鳥羽院との関係が目立っているだけである。
 一ヶ月後の三月二二日には左衛門権佐藤原親隆が増進した法金剛院東御所の供養が行われている。四一才の親隆は藤原為房と讃岐宣旨(法成寺執行隆尊の子で、忠通の乳母)の間に生まれ、鳥羽院、待賢門院並びに摂関家との間に緊密な関係を有していた。待賢門院当年御給として大治五年(一一三〇)一〇月には従五位上、長承四年(一一三四)正月には正五位下に叙せられ、天承から長承年間には女院判官代であったことが確認できる。親隆は異母兄顕隆の嫡子顕頼よりも五才年少であるが、顕頼は保安三年(一一二二)には二九才で正五位下となっている。得子が鳥羽院の寵愛を受けるようになると、顕頼と待賢門院の関係が悪化するとした角田文衛氏の説も誤りである。
 一才上の同母兄朝隆は鳥羽院との関係が中心であったが、鳥羽院の死後は朝隆・親隆ともに美福門院庁の中心となった。保延年五月一八日に得子の第一皇子体仁が誕生し、八月十七日には立太子され、得子は女御となった。春宮傳が藤原頼長、権大夫が家成である。ただし、誕生と同時に体仁は崇德天皇・中宮聖子の養子となり、そのもとで育てられている。

2019年4月19日 (金)

藤原伊通について3

 久安四年には伊通の娘で一八才の呈子が美福門院の養女となっている。美福門院は崇德の子重仁親王を養子としており、雅仁(後白河)の子孫王が養育されていた。孫王は母懿子が出産直後に死亡したためであり、親王宣下をうけないまま、九才で仁和寺に入った。伊通の立場が大きく動いたのは久安六年で、左大臣頼長養女(妻の同母弟徳大寺公能の娘)多子が近衛天皇のもとに入内したのに対抗して、同母姉宗子の夫忠通が呈子を養女として入内させたことである。三月に立后した多子に続いて、六月には呈子も立后し、多子が皇后、呈子が中宮と呼ばれた。
 多子が一一才であったのに対して呈子は二〇才であり、呈子が先に皇子を産む可能性が高かったので、頼長にとっては大打撃であり、これをうけて両者の父忠実は忠通を義絶し、頼長に氏長者の地位を譲った。元木泰雄氏は伊通が顕季の縁者として得子に接近していったとするが、久安四年時点での選択は様々な可能性を持つものであった。伊通の父宗通が養子としたのは長実の子時通であったが、長実の子たちは、得子を寵愛した鳥羽院のもとでは排除されていた。また、近衛天皇が死亡する前までは、崇德の子重仁が後継として即位するとの予想が一般的であった。美福門院一派と崇德の外戚である閑院流の対立という単一の観点では事態は説明できない。氏が美福門院一派とした源雅定、藤原家成の立場もそう単純なものではない。鳥羽院の近臣として美福門院に仕えるのは当然である。ただし、まもなく鳥羽院に代わって崇德院が主導権を握る日が近づいていた。忠通は頼長の争いに勝利せんとし、美福門院は暲子内親王を初めとする子達の近衛天皇以後の行く末を案じていただけである。

藤原伊通について2

 宗通の死亡により、養子時通が国守であった因幡国は、時通の実父長実の知行国となり、時通はその後も長実の知行国備後国と伯耆国で国守を務めていく。長承二年八月一九日に長実が死亡した後も伯耆守としての時通の地位に変更はなかったが、長親の備後守とともに、保延二年正月で交替し、その後長実の子が国守になることはなかった。
 大治三年一二月日待賢門院庁牒の署判者に「左近権中将藤原朝臣」として成通(一〇九七生)がみえる。長治三年正月に一〇才で叙爵し、嘉承二年一二月に侍従、天永三年には蔵人と受領を経ずに昇進したが、失言の多さから蔵人頭には起用されず、兄達より遅れて天承元年(一一三一)に三五才で参議となった。
 以上のように伊通が兄弟のトップの地位にあり、大治二年には参議兼右兵衛督に加えて中宮権大夫となった。同母姉宗子が忠通の間に生んだ姪の聖子が崇德天皇の中宮になったことによったが、大治五年一〇月に母の同母弟長実が権中納言に補任されたことに納得できず、三職を辞して籠居した。長実が一八才年長であるが、参議補任は伊通が七年早く、長実は前年に公卿になったばかりであった。伊通が復帰したのは長承二年八月に長実が死亡した後で、九月に権中納言に補任された。嫡子為通が崇德天皇の侍従として重用されていたこともあって、伊通の昇進に籠居の影響はほどんどなかった。翌年二月には蔵人頭兼右中将で中宮権亮であった重通が参議に補任され三六才で、兄伊通・成通とともに公卿となった。この間、中宮大夫は藤原宗忠から源能俊に交替し、伊通の後任の中宮権大夫は花山院忠宗・藤原宗能(宗忠子)をへて、藤原師実の子忠教に交替している。
 伊通は保延二年一二月に中納言に進み、右衛門督と検非違使別当を兼ねた。この間、伊通に特記すべき点はなかったが、崇德天皇譲位直前の同七年一二月二日には権大納言に補任された。同日には崇德天皇と兵衛佐局との間に生まれた重仁に親王宣下がなされているので、崇德の中宮聖子の叔父である伊通の立場に影響した可能性がある。康治二年正月には鳥羽院別当として、近衛天皇が鳥羽法皇御所に御幸した際の勧賞として正二位に叙せられている。


 

藤原伊通について1

 伊通は宗通と藤原顕季の娘との間に寛治七年(一〇九三)に生まれた。兄信通、弟季通・成通・重通、忠通の正室で皇嘉門院聖子の母である妹宗子はいずれも同母である。また母の同母弟長実の子時通が父宗通の養子となっている。
 康和二年(一一〇〇)正月五日に二歳年上の兄信通と伊通が同時に叙爵した。兄はその後康和四年正月に侍従に補任されるとともに昇殿を許され、二月には白河院の昇殿を許された。次いで六月には白河院別当に補任され、七月に従五位上に叙された。同六年正月には正五位下に叙せられるとともに、院司となり、長治二年正月には伊予介を兼ねた。その後、永久三年四月に蔵人頭、八月には参議に補任され二五才で公卿となったが、元永三年七月に病死した父宗通の後を追うかのように同年一〇月に病死した。
 伊通も康和五年に従五位上に叙されたが、長治二年(一一〇五)正月には院分国参河の国守と院判官代に補任された上で四月一〇日に侍従を兼ねた。嘉承元年一二月に備中守に遷任し、重任した上で永久元年正月まで務め、弟重通(一〇九九年生)と交替した。いずれも父が知行国主であった。
 父宗通は元永元年正月に璋子が立后されると中宮大夫となり、翌年六月に璋子の子顕仁親王家の勅別当に補任されたが、権右中弁であった伊通も政所別当に補任された。保安元年六月日白河院庁牒には、参議信通、権左中弁伊通、備中守重通が署判者としてみえる。その後、保安三年正月に頭弁から参議に補任され、病死した兄信通に代わって三〇才で公卿となった。
 弟季通(一〇九五年生ヵ)は嘉承元年(一一〇六)一〇月の前任者某の辞任を受けて美濃守に補任され天永二年正月まで一期四年務めたと思われる。就任時一二才であり、父宗通が知行国主として後見したであろう。天仁二年一二月二二日白河院庁牒には署判者として「判官代美濃守藤原朝臣」がみえるが、これが季通であった。季通は天永二年四月一四日には「左兵衛佐」となっている。そして天永三年正月に備後守に補任され、保安元年正月まで務めた。やはり父宗通が知行国主であったが、その後知行国は因幡国に遷り、養子時通が国守となった。備後守在任中の季通には璋子との密通疑惑が生じ、その後の出世が遅れたとされる。保安元年七月二二日に父宗通が死亡した際の『中右記』の記事では他の兄弟と異なり、季通のみ「前備後守」と記され、散位であった。

2019年4月18日 (木)

下総守藤原親通

 元木泰雄氏『保元・平治の乱を読みなおす』には、親通が皇嘉門院に仕える院司であるとの記述があったので、関係史料を捜すが見当たらない。そこでより説明が詳細な『河内源氏』で確認すると、親通の一族に皇嘉門院の判官代が多いことを考えると彼等は摂関家に従属していたと考えられるとの記述があり、肩透かしをくらった気がした。当該テーマに関する氏の論文集があれば、出典も確認できるが、摂関政治に関するものはあっても、院政期については、概説のみで、本により説明に濃淡がある。
 系図では親通の孫親長(親頼子)と親雅(親盛子)に「皇嘉門院判官代」との注記があるが、親通の二代後である。親通に関する史料はあまりないが、受領としては天仁三年(一一一〇)補任の山城守が初任で、次いで大治二年(一一二七)に現任が確認できる下野守をへて、保延二年(一一三六)に下総守現任が確認できる。義朝が千葉常重から「圧状之文」を奪った康治二年(一一四三)の正月には親通の子親方が下総守に補任されている。山城守と下野守の間、下野守と下総守補任の間には散位であった時期があると思われる。有力な院近臣のように、間を置かず遷任する状況にはなかったが、下総守は子親方が継承しているように、この時期には地位の向上が見られたのであろう。親通の娘が頼盛の妻となり、親盛の子親雅(政)は忠盛の娘を妻とし、娘二条内侍は重盛の妻となっている。
 頼盛の娘を母とする保盛は保元二年(一一五七)の生まれであり、忠盛の娘と親雅の結婚もこの時期であろう。平家との関係を強めたのは保元の乱前後からである。皇嘉門院との関係としては、親通の子親盛が仁安二年(一一六七)八月一〇日の時点で「女院=皇嘉門院判官代」であったことが確認できる(『愚昧記』)。以上をみる限り、親通が皇嘉門院の院司であったとの元木氏の記述は適切ではない。摂関家との関係も親通の父伊信を含めて史料がなく不明である。

2019年4月17日 (水)

藤原尹通について4

尹通は白河の娘禛子内親王=前斎院の家司となり、次いで白河の娘令子内親王の皇后宮権大進となり、最後に白河が寵愛した璋子の中宮大進となった。元永元年正月に璋子が立后された際の中宮大進は藤原為房の子重隆であったが、同年閏九月一日に重隆は死亡した。その後任として翌年一一月二八日以前に尹通が中宮大進に補任された。系図には尹通に「下野守」との注記があるが、関係史料は確認できなかった。
 尹通死亡時に二〇才であった知通は叙爵後三〇才前後で常陸介に補任されるとともに、待賢門院庁の別当となり、次いで鳥羽院庁の別当にもなった。尹通には藤原顕憲の妻となった娘があり、知通は妻の弟俊定を養子とするとともに、娘を葉室惟方や藤原頼憲の妻とし、知通の子尹明は大外記中原師元の娘を妻としたが、その母は平忠盛の娘であった。
 平治の乱では尹明は惟方とともに、信頼方となったが、後に忠盛の子清盛と結んだ。二条天皇派の中心となった惟方が、後白河の命を受けた清盛によって配流されたのに対して、尹明は平氏政権でも出羽守になるなど活躍し、平家の都落にも同行した。
 今回の検討は、卜部兼仲の前任の石見守藤原尹経の補任時点で石見国が待賢門院の分国とされたのではないかとの仮説に基づくものであった。そのためには、尹経が母が同じ知通よりある程度年少であることが大前提であるが、尹経の生年を推定しうる史料は確認できなかった。叙爵と同時に阿波守に補任された点は元服と同時に叙爵し出雲守に補任された源光隆と同じであり、その可能性は高いとは思うが、どうであろうか。
 光隆は藤原基隆の養子となり、その名に隆を付けたと思われる。それでは尹経の「経」はどうであろうか。同母兄知通と尹経は父の名前から一字ずつ使用している。尹通の母方の祖父通宗の同母兄弟通俊の女子は大炊御門経実(摂政師実の子)との間に経定をもうけている。尹経が叙爵と同時に阿波守に補任された元永元年時点で経実は大納言であった。その長子経定は一〇才で叙爵し、中宮(聖子)権亮を経て保延四年には崇德天皇の蔵人頭となっている。異母妹懿子は雅仁親王(後白河)との間に守仁親王(二条天皇)を産んでいる。

 

藤原尹通について3

 尹通の子としてはこの外に大治四年(一一二九)八月二八日に叙爵した蔵人式部知通と同日に式部丞から蔵人に補任された有盛がいる。この日に石見守が尹経から卜部兼仲に交替していることからすると、尹経に健康上の問題(死亡を含む)が生じたため、兄弟二人の叙爵と補任が実現した可能性が高い。尹経の活動はこれ以降確認できない。
 長承元年一二月二五日に中宮職(侍長=聖子の侍所ヵ)正六位下藤原有盛について、待賢門院別当の筆頭である大納言兼治部卿源能俊が、希望した修理亮補任の請状を提出している(『知信記』)が、その後の史料は確認できない。これに対して知通は藤原俊忠の娘を妻としている。尹通が死亡した保安三年に五〇才の俊忠は権中納言に補任され、その翌年に死亡している。藤原定家の父俊成は俊忠四二才時点の誕生である。俊忠の末子と思われる俊定は、知通の養子となっている。同母兄弟知通は康和五年(一一〇三)生で、俊定(知通母の弟)は姉の夫知通の養子となったと思われる。
 知通は長承元年(一一三二)一一月二三日には常陸守(親王任国であるため、実際には常陸介)としてみえる(『中右記』の史料大成本では「知迪」と読まれている)。そして保延元年五月日待賢門院庁下文には別当の一人として「常陸介藤原朝臣」が署判を加えている。『大日本古文書 東大寺文書』では「藤原公信」と注記するが、前述のように誤りである。編纂所花押カードデータベースでは「知通」としており、これが正しい。同三年九月の女院庁下文も同様であるが、保延四年五月二〇日と一一月一八日の鳥羽院庁下文の署判者としてもみえ、女院のみならず鳥羽院の近臣にもなった。
 その後、保延七年六月二三日と八月二五日の鳥羽院庁下文には「東宮学士藤原朝臣」として署判を加え、崇德天皇の皇太弟体仁の学士になったことがわかる。ただし一一月二一日には四一才で死亡しており、康治元年一二月一三日の下文に署判者としてみえないのはこのためであった。

藤原尹通について2

 元永元年正月に子尹経が阿波守に補任されたが、庄園の立券の処理など実際の業務は知行国主である尹通自身が行っている。同年八月の関白藤原忠実家政所下文にも「皇后宮権大進藤原朝臣(尹通)」が署判を加えている。元永二年一二月二八日には尹通が中宮(璋子)大進に補任された件について、記主藤原宗忠は、尹通は安芸守退任後、公文の功過を受けていないのに、皇后宮権大進になったことと合わせて批判している(『中右記』)。
 これに対して尹通は同年一一月に遷宮が行われた石清水八幡宮を造進して子尹経の任官功を募る一方で、保安元年正月二八日には安芸国の解由を提出して功過を受けている。尹通の提出した書類には不備があったが、尹通については白河院から内々の指示があるとして、不備を補うよう指示をして、公卿会議での功過を終わっている。翌二月一日には中宮使として大進尹通が春日祭に派遣されている。一二月一九日には尹通が左衛門権佐に補任されている。
 尹通の子尹経は侍従所監藤原忠季の娘を母とし、永久五年(一一一七、伊通三八才、以下同じ)一一月二一日には「蔭孫正六位下藤原朝臣尹経」とみえ、藤原為隆の子憲光とともに文章生試詩に合格し文章生に補任された。父尹通も「正五位下行安芸守兼皇后宮(令子内親王)権大進藤原朝臣尹通」として審査員に名を連ねていた。翌元永元年正月一八日に叙爵し、同日に禛子内親王未給分により阿波守に任命された。同母兄弟である知通は康和五年(一一〇三)生で、保安元年(一一二二)正月一四日に学問料を給され、蔵人式部であった大治四年(一一二九)八月二八日に二七才で叙爵している。系図の記載順から尹経は弟と思われるが、前述のように学問の才で勝っていたためか、一一年も早く叙爵したことになる。尹通の名は母方の祖父藤原通宗(信西入道の母も通宗之娘)にちなむものであろう。
 阿波国は院分とあり、白河院分国で、父尹通が知行国主であった。元永二年一二月に遷宮が行われた下賀茂社正殿は、尹通が子である阿波守尹経の重任功として造営したものである。また、廻廊・中門についても造営を請け負っている。任期途中の保安三年(一一二二)四月に尹通が死亡したにもかかわらず、その地位には変化はなかった。この時点で尹経が成人に達していたため継続した可能性もあるが、一方では院分であったため院近臣がサポートする形で阿波守を務めた可能性が大きい。天治元年三月の待賢門院の第二皇子出産時の儀式の饗でも、阿波国が上達部分を負担している。これに対して石見守退任後の尹経関係史料な確認できず、その子(男女とも)も不明である。

 

藤原尹通について1

 尹通は大治三年(一一二八)から四年にかけての石見守尹経の父である。保安三年四月二日に四三才で死亡しており、承暦四年(一〇八〇)の生まれとなる。その生涯を確認しつつ、石見国が待賢門院分国となった背景をみていく。
 『大日本史料』第三編二九の解説(『東京大学史料編纂所報』第四九号)には尹通について以下のように記されている。
 藤原尹通は南家の出で、文章生・得業生として鳥羽天皇の東宮時代から蔵人となり、検非違使を兼ね、受領を歴任し中宮(璋子)大進となった。安芸国司であった間に署判を加えた文書も残り、これまでにも指摘があるように、高田郡関連の文書群には正文であるか疑点は残るものの、何らかの根拠のあるものとみられる。
 尹通は承徳二年(一〇九八、一九才)に氏院(勧学院)学問料を与えられ、康和四年に白河院蔵人となり、翌五年(一一〇三、二四才)一二月二六日には東宮蔵人であった尹通が文章得業生に補任されている(『中右記』)。嘉承二年(一一〇七、二八才)正月一〇日には問頭藤原敦光により秀才尹通(文章得業生正六位上行越前大掾)が献策をうけている。七月一九日には堀河天皇の蔵人に補任され、一二月一日の鳥羽天皇即位の際には勅使蔵人として参入し、二二日の饗でも蔵人頭藤原為隆のもとで乾盃を行っている。次いでその勧賞として左衛門尉に補任された。
 天仁三年から永久六年まで安芸守であった。天永二年(一一一一)四月一八日の賀茂祭からの帰りで、斎院(白河院の第四皇女禛子内親王)の車の前駈を安芸守尹通が務めている。同年一〇月五日歌会には五位の儒者として参加しているが、安芸守補任前には叙爵していたと思われる。安芸守としては天永三年と永久二年には「大介」として国司庁宣に署判を加えている。永久元年(一一一三、三四才)正月一日に一一才の鳥羽天皇が元服しているが、その儀式に殿上人の童で元服した者を招いているが、その中に安芸守尹通子がみえる。天皇と同年生まれの知通(後述)であろう。また、同年一二月二一日には白河法皇が方違のため尹通の鳥羽南第を訪れている。翌年(三五才)正月五日に策により従五位上に叙され、一一月二九日には白河法皇の白河新御願寺供養に伴う勧賞により前斎院(禛子内親王)家司尹通が正五位下に叙せられている。永久五年二月一二日にも白河法皇が方違のため安芸守尹通第を訪れている。
訂正:蔵人頭に補任されたのは藤原伊通であり、訂正した。

2019年4月15日 (月)

一一世紀の石見守3

 これに対して承徳元年(一〇九七)一〇月一七日に「前石見守宗季」(『時範記』)とみえるのは寛治二年(一〇八八)三月二三日の石清水臨時祭に派遣された近江守敦家の陪従としてみえる「前上総守橘宗季」である。宗季は承暦四年(一〇八〇)閏八月二五日に上総守に現任していた事が確認できる。宗季は橘成綱の子で、橘氏の氏長者以綱の甥にあたる。橘氏に対しては摂関家氏長者が橘氏の氏爵を行う是定の地位を得ており、父忠実から氏長者の地位を譲られた頼長は以綱の孫以長を橘氏の大学別曹である学官院の別当に補任している。
 承徳元年(一〇九七)正月三〇日には従五位下藤原隆仲が石見守に補任されている。康和三年(一一〇一)一〇月一日には石見守隆仲が忠実に牛二頭を送っているように、摂関家との関係が深かった。天永元年(一一一〇)三月一八日には「石見前司隆仲」が忠実の使者として春日社への奉幣に派遣されている。また天治二年(一一二五)一月二八日には隆仲は安房守に補任されている。康和五年(一一〇三)正月六日に「前石見守中原広宗」がみえるが、広宗も康和三年一二月二四日には摂関家家司に補任されている。隆仲の前任の石見守ではなかったか。広宗の孫広季の子ないしは養子とされるのが大江(中原)広元である。
 広宗と同日に職事に補任されたのが次に述べる定仲であった。天仁二年(一一〇九)八月二四日には「余(忠実)職事石見前司定仲、余前駈也」とある(『殿暦』)。嘉保元年(一〇九四)一二月二日には頭弁源師頼と一臈式部丞定仲が恐懼に処せられている。五節の舞姫参入時に帳台の戸を開け放しとしたため、万人に中が見えてしまうという失態があったためである(『中右記』)。隆仲と定仲はいずれも藤原国仲の子であり、国仲の養子となったのが永久二年二月から保安元年末にかけて石見守であった藤原盛重である。隆仲と定仲が摂関家との関係が深かったのに対して、盛重は白河院の寵臣となった。

一一世紀の石見守2

 長元四年(一〇三一)三月九日には実資が石見守資光に馬一疋を与えている。これも資光が赴任するためであろう。同年七月には石見守資光が提出した五ヶ条の申状に関するものであった。その後しばらく史料を欠くが、天喜四年(一〇五六)三月二九日には前石見守大中臣某がみえるが、系図上の比定はできない。源頼信も長元三年九月二日以前に甲斐守に補任されている。
 康平六年一一月三日には石見守清原真人が清原頼行を久利郷司職に補任している。この当時の石見守は系図で「石見守」と注記がある清原定隆であるが、その父は頼隆、伯父は頼澄であり、頼行も定隆の一族であろう。定隆の子縫殿助親信については、系図により記載内容が異なっている。清原系図では藤原永親の養子になったと記すが、藤原魚名流の系図では藤原親賢の養子とし、その子が美福門院乳母夫として自らだけでなくその子孫が女院分国の国守となった親忠である。
 親忠はその死亡記事から嘉保二年(一〇九五)の生まれであるが、その祖父とされる親賢が佐渡守に補任されたのは大治三年(一一二八)である。親賢は初の受領であったと思われるが、孫の生年からすると七〇才前後となってしまう。同じく親信の養父とされる藤原永親は三蹟の一人行成の子で、甲斐守在任中の永保三年(一〇八三)一月に死亡している。ただし藤原北家の系図には行成に養子親信がいたとの記載はない。要は美福門院の乳母夫親忠の系図上の位置は確定できないのである。その妻である美福門院伯耆についても、その父が伯耆守であった可能性はあるが、比定するには情報が不足している。
 話を戻すと、承暦元年(一〇七七)八月二二日に石見守藤原国房が病気のため出家している。その後任には一〇月三日に源致通が補任された。飛騨守の経験者であった(以上『水左記』)。応徳二年(一〇八五)に石見守に補任された藤原公房、寛治三年(一〇八九)一〇月四日に石見守現任が確認できる中原在国を含めて関連情報は確認できない。

一一世紀の石見守1

 藤原盛重以前の石見国司について確認する。
 一〇世紀末であるが、長徳二年(九九六)三月二八日に藤原実明が石見守を、源輔良が長門守を停任されている。実明は藤原北家良仁流当国の子である。系図では当国に「尾張守」の注記があるが、一次史料では確認できない。従兄弟隆頼にも「石見守」との注記があるが、これも確認できない。実明の他の受領歴も確認できない。長保元年(九九九)九月一三日には実明が小野宮右大臣実資に牛二頭を送っており、小野宮家の家司等であろう。
 長保元年(九九八)正月には元主殿允保重が権少外記に補任されている。翌年正月には転任しているが、その後も少外記とみえ、長保三年八月二五日に大外記に転じ、同五年正月七日には叙爵している。その上で寛弘四年(一〇〇七)正月に石見守に補任された。寛仁三年(一〇一九)正月二一日には前石見守保重の功過が定められており、これ以前に退任していた(『小右記』。二三日条には保重が石見守を勤めたことで加階を実資が推薦したことが記されている。保重も小野宮家の関係者であろう。長和四年(一〇一五)一〇月一五日時点で「前石見守清科」とみえ、その後の受領歴はなかったと思われる。
 寛仁三年(一〇一九)正月二三日には源頼信が石見守に補任された。清和源氏源満仲の子で藤原道長に仕える一方で上野介と常陸介を歴任していた。同年七月八日には翌日石見国に下向するとして、実資から禄を与えられている。道長の近習であったことも記されている。治安三年五月二三日には前石見守頼信が解由を持参した事と、石見守藤原頼方が二六日に赴任するとのことで、実資が下襲を与えた事が記されている(『小右記』)。頼方は尾張国郡司百姓等解文で訴えられた藤原元命の子である。一方、頼信は八月には鎮守府将軍に補任されている。同年一二月八日には伴定義が石見守に補任されているが、それ以上の点は不明である。

2019年4月13日 (土)

揖屋庄領家再論

 建久一〇年四月日揖屋庄領家政所下文の主は藤原範季としたが、実際に当時七〇才であった範季は健在であり(『公卿補任』)、推定には問題がない。右衛門尉惟宗については、後白河院の北面の歴名に惟宗氏が複数名みえており、この中に該当する人物がいる可能性はあるが、不明とせざるを得ない。
 後白河院庁の主典代大江景宗もまた北面歴名の中にみえている。ただし、文治三年六月一四日院庁下文には「主典代織部正兼皇后宮大属大江朝臣」と署名しているが、文治四年二月二六日院庁下文では「主典代織部正大江朝臣」に変化している。
 当時の皇后宮について確認すると、後白河院の第一皇女亮子内親王である。寿永元年八月一四日に安徳天皇の准母とされ皇后宮となった。天皇の母徳子は前年一一月二五日に院号宣下により建礼門院となっていた。その後、平家が都落ちをすると、安徳に替わって即位した異母弟後鳥羽の准母にもなった。この亮子内親王が文治三年六月二八日に院号宣下により殷富門院となったため、景宗の肩書きから皇后宮大属がなくなったものである。
 皇后宮大夫は三条実房(公教の子)、皇后宮権大夫は文治元年四月二五日に徳大寺実守が死亡すると、兄実家(ともに公能の子)に交替していた。亮子内親王の母は藤原季成の子であるが、季成は三条実行、徳大寺実能、待賢門院の異母弟であった。閑院流三条家の当主で藤原清隆の娘を母とする実房と、特大寺家当主実定の同母弟である実家・実房兄弟が亮子内親王を支えていた。
 揖屋庄領家政所下文には「散位皇后宮大属」あるが、正しくは「散位前皇后宮大属」の誤りであろう。後白河の北面から主典代となった景宗が、その母待賢門院の実家である閑院流の公卿と関係を持ち、待賢門院の子崇徳院の最側近藤原(日野)資憲が崇徳御願寺成勝寺に寄進して成立した揖屋庄の支配にかかわっていたのであろう。
 以上のように、揖屋庄領家職が日野資憲からその娘と平教盛の間に生まれた教子とその夫藤原範季に継承されたことと、別当の一人(前)皇后宮大属が後白河北面で主典代であった大江景宗であることが確認できた。

 

2019年4月11日 (木)

憲方・光房・経房6

 永万二年三月九日には六条天皇の下で昇殿を認められ、八月二七日には平時忠に替わって蔵人に補任された。この後、経房の娘が時忠の長子時実の妻となっている。六条天皇の実質的外戚の地位にあったのは徳大寺実定であった。次いで仁安二年正月には藤原長方の跡をうけて右衛門権佐に補任された。八月には七月に従四位下に叙せられた長方が従五位上相当の左衛門権佐を辞退した跡に転じた。
長方の母と経房の母はともに藤原忠俊の娘であった。
 仁安三年二月一九日には新帝高倉天皇の蔵人となり、三月二〇日には高倉の母滋子が立后されたことに伴い、皇太后宮大進に補任され、嘉応元年四月一二日には院号宣下された建春門院判官代となった。滋子は藤原顕頼の娘を母とし、上西門院女房であった。六条天皇と高倉天皇は対立する側面があるが、経房は平時忠を含めて関係を有していた。その後も政権の交代に関係なく、経房は昇進し、公卿の地位を得たが、旧知の頼朝が幕府を開いたことで、経房は初代の関東申次とでもいうべき地位を得た。経房が頼朝以前に北条時政との関係を有していたとの説があるが、すでに述べたように、十分な根拠はなく、矛盾に満ちたものである。頼朝が経房領出雲国薗山庄前司師兼の養成を受けて、その還任の推薦状(経房宛)を師兼に与えたように、両者の関係は緊密なものであった。とりあえずはここまで。 

憲方・光房・経房5

 経房は同年一〇月二二日には大内裏(左衛門陣後庁)造宮賞として従五位上に叙せられているが、伊豆守としての功であったと思われる。平親範は蔵人右少弁、義父範家は蔵人頭木工頭であった。この時の叙位で、伯父憲方は子である紀伊守頼憲の造営賞により従四位上、親範と源義朝は正五位下、後に相博する安房守平義範と卜部基仲は経房とともに従五位上に叙せられている。保元三年二月三日に統子内親王が後白河の准母として立后されると、経房は皇后宮権大進に、義朝の子頼朝は権少進に補任された。翌四年二月一三日に統子内親王が院号宣下により上西門院となると、経房は判官代、頼朝は蔵人に補任された。
 皇后宮のその他の役人は権大夫(後に大夫)徳大寺実定、権亮藤原信頼、大進平親範、権大進藤原為綱、少進源清雅である。実定は待賢門院の同母兄で、女院別当実能の孫、信頼は待賢門院別当忠隆の子で祖父基隆も女院別当であった。親範の祖父実親は待賢門院判官代を経て参議となった。母方の祖父は待賢門院別当藤原清隆である。為綱は待賢門院判官代親隆の子、清雅は自らが大治五年一月には待賢門院判官代として、女院御所を訪れた人々の取り次ぎを行っている。清雅の父雅職は摂関家職事であったが、忠実から追放され、その後、院との関係を強めた。仁平四年正月三〇日に左大臣頼長嫡子師長が上卿として春日祭に派遣されているが、それに従った崇德院殿上人として、「散位清雅、甲斐判官代」がみえる。父雅職が甲斐守であったことと、清雅自身が女院判官代であったことからの呼び名であろう。統子内親王の皇后宮の役人がすべて母待賢門院の関係者であることがわかる。
 同母兄弟であった憲方の嫡子頼憲と光房の嫡子経房の運命を分けたのは、頼憲がその猶子となった藤原惟方が、永暦元年二月に後白河院の命を受けた平清盛により配流されたこととであろう。翌永暦二年四月一日に経房は祖父為隆去天永二年春日社行幸賞として正五位下に補任され、為隆流の惣領としての地位が確立している。経房は長寛二年二月二八日には安房守を辞任して猶子有経に替わることで安房国知行国主となり、続いて実子定経、定長を安房守とした。

憲方・光房・経房4

 顕遠は二二才であった天承元年正月一四日に鳥羽院判官代から崇德天皇の蔵人に補任され、翌年正月に叙爵している。長承三年三月一九日に中宮権少進、一一月二六日に摂津守に補任された。翌保延元年一二月に皇后宮権大進に進んだ。ここまでは父長隆と摂関家の関係が強かったと思われるが、永治元年一二月二六日に従五位上に叙せられたのは鳥羽院御給であり、次いで翌二七日には皇后宮(得子)権大進に補任され、鳥羽院と皇后得子との関係を深めた。永治二年正月に甲斐守に補任されたのは、待賢門院系の源宗賢から鳥羽院・得子系の顕遠への交替であった。鳥羽院の判官代にもなり、康治二年正月三日には朝覲行幸の賞として正五位下に叙せられている。
 話を光房に戻すと、久安五年一〇月二日に美福門院殿上始がなされたが、殿上人として右衛門権佐憲方(正五位上、別当でもあった)と左少弁光房(従五位上)がみえている。一方、久安六年二月二七日に皇太后聖子は院号宣下により皇嘉門院となるが、その判官代として光房がみえる。皇嘉門院は忠通の娘であり、摂関家との関係で中宮少進に起用されて以来のものであろう。
 久安四年正月には光房の子信方が伊豆守に補任されており、光房が知行国主であったと思われる。ところが、仁平元年に信方が死亡したため、同年七月二四日に異母弟経房が伊豆守に補任された。経房は久安六年(一一五〇)六月九日に九才で蔵人に補任されたが、それまでは摂政(忠通)家勾当であった。伊豆国は父光房の知行国であったと思われるが、久寿元年一一月一〇日に四六才で所労のため死亡している。それにもかかわらず経房は伊豆守に現任し続けており、義父平範家が知行国主を継承したと思われる。保元二年(一一五七)八月二一日には一六才で勘解由次官に補任されたが、前任者で妻の兄弟である平親範が右少弁に転じた替りの人事であった。

憲方・光房・経房3

 前にも述べたように統子内親王の移渡の中心となったのは大蔵卿藤原通基と越中守資賢と憲方であった。資賢は白河院司で、鳥羽院庁別当ならびに統子内親王時の斎院長官であった有賢の子である。有賢は待賢門院の御願寺法金剛院塔の供養が行われた保延二年一〇月五日の勧賞で前斎院(統子)分として従三位に叙せられている。資賢は鳥羽院と美福門院の別当であるが、保元四年二月一九日の上西門院昇殿始では殿上人として「修理大夫資賢」がみえている。そこには「刑部卿憲方」とともに「左衛門権佐頼憲」もみえる。資賢の異母(平正盛娘)弟宗賢は待賢門院が出家した際に遁世したが、藤原頼長は『台記』の中で、人となりは優であり、大変な賢者であると、その遁世の愚かさを歎いている。
 宗賢は藤原清隆の同母弟範隆の後任の甲斐守であった。範隆は元永元年一月の女御璋子の立后時に、白河院蔵人から中宮権少進に補任され、元永二年一一月一一日には崇德天皇の蔵人に補任された。保安五年に藤原宗兼(池禅尼兄弟)の後任として和泉守に補任され、大治三年正月に甲斐守に遷任し、大治四年一二月供養の白河院の御願寺法勝寺内御堂の造進を行っている。次いで大治五年四月に藤原聖子が立后した際の除目で左馬権頭に補任された。しかし、長承二年(一一三三)八月二七日に三七才で死亡したため、九月に父有賢が但馬守を辞して子宗賢の甲斐守補任が実現した。父有賢が知行国主であったと思われる。保延三年(一一三七)一二月に甲斐守が重任しているが、宗賢のことであり、任期満了により永治二年正月に皇后宮(藤原泰子)権大進藤原顕遠に交替している。顕遠は為隆・顕隆の同母弟長隆の子であった。長隆は兄為隆と同様、摂関家家司であったが、顕遠が二歳時に死亡した。

憲方・光房・経房2

 「国司一覧」では光房が長承元年一一月二三日時点で摂津守に現任していながら、その一方で同年九月一九日に伊賀守である出典が記されている。矛盾しているので確認すると、『兵範記』(活字)と『知信記』(宮内庁書陵部蔵写本)には該当する年月日の条文に伊賀守関係記述は見当たらない。このあたりは「国司一覧」を更新した最新の研究データの必要性が感じられる。とりあえずは比較的最近のものである『三重県史』で確認したい。この時期の摂津国は光房の父為隆の知行国との推定が可能だが、一方では大治五年九月八日に為隆が死亡したことが摂津守光房の地位に影響していない。父の死亡時に光房は二二才、兄憲方は二五才である。知行国主をいただかない国守に移行したのだろう。憲方は出雲守から周防守、さらには近江守に遷任し、近江守辞任(天養元年)と同時に子頼憲が相模守に補任されている。この点も前述のように憲方が相模国知行国主であったことを裏付ける。
 保延四年四月一九日に崇德天皇が小六条から還御した土御門殿は、伊賀守光房が遷任の功として修造したものであった。伊賀守退任後は勘解由次官兼蔵人を経て久安三年正月の除目で右少弁に起用され、以降は中央でのポストを歴任する。この時に右衛門権佐であった兄憲方も弁官を望んだが、光房が選ばれた。これに対して憲方は保延元三月に女院が渡御した法金剛院東新御所を修造しているように、待賢門院との関係が深かった。
 康治二年(一一四三)四月には皇后得子(美福門院)が白河押小路御所に移渡し、七月には前斎院統子内親王が三条室町殿に移渡している。前者は美福門院分国丹波国の国守であった藤原俊盛が造営したのに対して、後者は待賢門院分国であった安芸守源光隆が造進したものであった。前者の記事には勘解由次官光房と右衛門佐兼近江守憲方ともにみえるが、後者の記事には憲方のみみえる。

憲方・光房・経房1

 藤原憲方は為隆と藤原有佐の娘の間に生まれた。同母弟が光房である。元永元年(一一一八)四月三日に大学助憲方が蔵人に補任されているが、そこでは一四才と一三才との異なる情報が記されているが、他の情報を勘案すると長治二年(一一〇六)の生まれとなる。弟光房は三才下で天仁二年(一一〇九)の生まれである。六月八日には白河院皇女で前斎院禛子親王からの申請が認められ憲方が叙爵している。
 祖父有佐は受領を歴任し、その娘には為隆の妻とともに藤原知信の妻もいた。知信の子為忠の妻なつともは白河院の最後をみとった一人で、待賢門院女房安芸と呼ばれた。有佐の従兄弟敦兼は母兼子が堀河天皇の乳母となったこともあり、白河院近臣となり、鳥羽院と待賢門院の別当にもなった。憲方の異母弟憲光は元永二年六月一九日に待賢門院の長子顕仁親王(崇德)家の職員が補任された際に、蔵人となっている。為隆の同母弟で「夜の関白」と呼ばれた顕隆とその嫡子顕頼は政所別当に補任されている。
 憲方は保安二年(一一二一)一二月二九日に父為隆が遠江守を辞退する替として出雲守に補任された。一六才であり、出雲国は父為隆の知行国となった。天治元年五月二一日には御仏供養がなされているが、中納言某、播磨守藤原家保、頭中将藤原忠宗が競うように仏像を造進する中で出雲守憲方も等身六字天一体を増進している。為隆は院との関係が強かった弟顕隆と異なり、摂関家家司を務めていた。
 憲方の同母弟光房は正六位上であった元永三年(一一二〇)に大膳亮に補任されている。その補任請状を花山院家忠が光房を「蔭孫」と呼んで出しているが、家忠の母と光房の父為隆の母は姉妹(源頼国の娘)であった。光房は兄憲方から四年遅れて一七才である天治二年(一一二五)一月二八日に初の受領である摂津守に補任されている。光房は大治二年(一一二七)一一月一四日には鳥羽院の第四皇子(雅仁=後白河)の家司に、大治五年二月二一日には崇德天皇の中宮に立后された藤原聖子の中宮少進(大夫進)に補任されている。光房が院とともに、為隆の後継者として摂関家との関係を有していたからであろう。これに対して憲方は摂関家との関係はうかがわれない。

補足:元永二年六月一九日に定められた顕仁親王(崇德)家職員の中に、蔵人として為隆の子文章生憲光がいる。

 

2019年4月 7日 (日)

相模国は美福門院分国か5

 次いで康治二年四月七日には親弘が左馬助(正六位下相当)に補任されているが、四月三日には安房守親忠が造営した白河押小路御所に皇后得子が移っており、その功によるものか。翌久安二年一二月二一日にはその子親長が皇后宮(得子)御給で修理亮に補任されている(『本朝世紀』)。隆信が美福門院の死後しばらく官職に補任されなかったのに対して、親弘はその後も但馬守、河内守を歴任し、治承四年一〇月に死亡している。
 親弘については永久五年(一一一七)頃の生まれ(父親忠は二三才)ではないかとの推定があるが(谷山茂「親忠家と俊成」)、その経歴からみて妥当である。となると親弘が相模守に補任されたのは三〇代半ばで、且つ上総介を経てのものであり、知行国主はいなかった(美福門院分国ではなかった)と思われる。父親忠のように美福門院とその関係者の御所造営を親弘が行った記録も確認できない。ただし、鳥羽院死後の安楽寿院公文所の役人となっているように親弘が美福門院の近臣であったことは間違いなかろう。
 以上、元木氏の説を検討したが、相模守頼憲の在任から義朝が鳥羽院に接近して下野守に補任された点と、下野国が鳥羽院関係者の知行国であるとの説には問題があると思われる。鳥羽院よりも待賢門院・崇德との関係で得たものである。よって頼憲の後任の相模守藤原親弘が美福門院の関係者であることは事実であるが、それが義朝の下野守補任の背景となったとはいえない。この点を補強するために、次回は頼憲の父憲方について述べる。

相模国は美福門院分国か4

 元木氏の議論に戻ると、仁平三年の義朝の下野守補任は、彼が摂関家を離れ鳥羽院中枢に接近したことによるとし、その背景として、その前年の仁平二年正月に美福門院の乳母夫藤原親忠の子親弘(元上総〔野ヵ〕介)が相模守に補任されたことをあげる。親弘は久寿二年一二月二五日に重任し、保元二年十月二三日には正五位下に叙されている。保元三年二月日安楽寿院公文所下文に署判している相模守藤原朝臣も親弘であろう。
 これに対して「知行国主・国司一覧」(『中世史ハンドブック』)では、『山槐記』仁平二年一一月一五日を根拠に(源)頼定に相模守が交替したとする。藤原基実が三位に叙せられたことに伴い関係各所を慶賀しているが、その扈従として「相模守」がみえ「頼定」と注記されている。ただし『兵範記』同日条には「散位頼定」と記している。仁平四年一月一日に基実が各所を挨拶にまわった際にも「散位頼定」が扈従しているが、翌二日には太政大臣以下が崇德院や皇嘉門院を奉聞しているが、そのメンバーとして「相模守頼定」がみえる(『兵範記』)。このように記載が混乱したのは頼定が前相模守(時期的には長承二年補任の藤原清隆の子隆盛の前任であろであったためであろう。
 五味文彦氏の研究で乳母夫親忠の子孫で美福門院分国の国守とされたのは、娘美福門院加賀と藤原為経との間に生まれた隆信(永治二年生、絵師として著名)のみで、久安五年一〇月一〇日に九才で女院蔵人に補任され、三年後の仁平三年四月に初めて若狭守に補任されている。親弘の生年や母は不明であるが、保延元年(一一三五)一二月二五日に文章生藤親弘が民部少丞に補任されている。この年に得子は第一子叡子内親王を産み、翌二年四月一九日に従三位に叙せられている。得子の乳母夫で親弘の父親忠が一一月四日に初の受領である安房守に補任されている。

相模国は美福門院分国か3

 義朝が久安三年(一一四七)には熱田大宮司家の藤原季範の娘との間に頼朝をもうけた点について元木氏は、季範が待賢門院側近であるとするが、それはその娘に待賢門院女房大進局がいることが根拠であろうか。季範については角田文衛氏『古代の明暗』で論じられているが未見であるので、とりあえずそれを踏まえた藤本元啓氏『中世熱田社の構造と展開』等(一一二二)を参照した。
 尾張国目代であった藤原季兼の子季範が従来の大宮司尾張氏に代わって永久二年(一一一四)に二五才で大宮司に就いているが、この年には藤原季成が尾張守に補任されている。季兼が目代であった時期の尾張守藤原長実と季成の関係について、藤本氏は季成の異母兄三条実行の妻が顕季の娘(長実の姉妹)であることとの関連を説かれるが、あまりにその関係は薄弱である。季成は尾張守補任時に一三才でしかなく、知行国主が誰であったかが問題となる。季成は保安二年閏四月に二〇才で加賀守に補任されているが、その際の知行国主は異母兄西園寺通季であった。通季は待賢門院の同母兄であり、永久三年には二六才で参議となっており、季成は知行国主西園寺通季のもとでの尾張守であったと考えられる。両者は「季」の一字を共有している。ということで、藤本氏の指摘(季範が季成の目代であった可能性にも言及)には根拠がない。ただし、季範の娘が待賢門院女房となる背景にはなったであろう。
 角田氏は大治四年(一一二九)四月一九日の斎院御禊の蔵人所前駈雑色二人の中にみえる「季範」(『中右記』)を熱田大宮司季範と同一人物とされているが、季範はこの年四〇才であり、ありえない比定である(季範が「従四位下」とする系図の記載の裏付けもない)。四月二五日にみえる「尉季範」(源季範)であろう。一九日の雑色に続いてみえる衆四人の一人「盛兼」が二五日の「尉季範」の次に記されている。また、季範が久寿二年二月に周防守に任官し、同年一二月に死亡したとしているが、これも源季範の誤りである。角田氏の史料収集は広範囲に及ぶもので評価出来るが、その解釈の検証も必要である。藤本氏は義朝と季範娘との縁組みには義朝母方の待賢門院別当藤原清隆・同蔵人藤原康俊が関与したとするが、これも根拠薄弱である。季範の事跡については系図の記載を除けば史料を欠いている。

相模国は美福門院分国か2

 従兄弟(憲方の同母弟光房の子)吉田経房が一〇才で叙爵した事を勘案すると、その七年後に相模守補任時に頼憲は一〇代後半であったと思われる。同母弟光房が鳥羽院近臣と摂関家家司であったのに対して、憲方は鳥羽院と待賢門院の近臣であった。知行国主は父憲方であろう。憲方死亡時には三〇代半ばと思われるが、系図には同族の惟方の猶子となったことが記されている。
 惟方と頼憲の妻はともに藤原知通の娘であった。惟方は憲方よりも一九才若く、憲方は子の将来を惟方に託すため、その猶子としたのであろう。惟方は二条天皇の側近であったが、永暦元年二月に後白河院の命令を受けた平清盛の郎等に逮捕され、長門国へ配流された。この事件は頼憲のその後の昇進にも影響を与えたと思われる。憲方が五五才で死亡したのは同年五月四日であった。
 続いて仁平三年に義朝が国守に補任された下野国に注目し、摂関家知行国とは考えられず、よって守補任は摂関家の推挙ではないとした上で、前任の下野守が藤原宗長であることから、下野国が院周辺の勢力の知行国であることを物語るとする。ここから、義朝は摂関家ではなく鳥羽院に接近して受領の座を射止めたことになるとした。院周辺がいつの間にか鳥羽院にすり替えていることが問題である。
 系図では宗長の弟と思われる宗賢にも「下野守」との注記がある。兄であろう宗長が最初に受領となったのは父宗兼の跡を継承した和泉守で、補任時期は不明だが、保延三年一二月に石見守卜部兼仲と相博している。下野守の補任状況を勘案し、宗長の受領補任に続いて弟宗賢が下野守に補任されたとすれば、宗賢は日野資憲の前任者であった可能性が大きい。すなわち義朝に至る下野守は藤原宗賢→日野資憲→藤原宗長→藤原宗国→源義朝であったことになる。
 藤原宗長は仁平二年正月に「高陽院・入道殿(忠実)給」で従五位上に叙されている。日野氏も摂関家の家司を務めており、資憲は長承元年二月二八日には法成寺両塔供養の仏事奉行の勧賞により従五位上に叙せられている。また長承三年三月一九日に藤原泰子が鳥羽院の皇后宮とされた際には、日野資憲が皇后宮権大進に補任されている。元木氏は摂関家知行国とは考えられずとしたが、その可能性が無いわけではないのである。ただし、それ以上に待賢門院分国を経て崇德院の分国となった可能性が大きい。

相模国は美福門院分国か1

 元木泰雄氏①「源頼朝」(『治承~文治の内乱と鎌倉幕府の成立』二〇一四)、②『源頼朝』(二〇一九)には相模国が美福門院の分国であるとの記述がみられる。①では「とみられる」と推定であったが、②では「分国となる」と断定的に述べてある。五味文彦氏の研究では含まれていなかったので、検討してみたい。時期が明記していないが、義朝が美福門院とその背後にある鳥羽院と接近したことで下野守に補任されたとされているので、分国となったのは仁平三年以前のことになる。
 元木氏論文①の当該部分には③『河内源氏』(二〇一一)と④『平清盛と後白河院』(二〇一二)が典拠とされていたので確認すると、④には「庄園寄進を通じて美福門院に接近した上に、室の実家熱田宮司家が後白河の母待賢門院側近である義朝」という表現がみられるのみである。これに対して③には詳細な具体的記述がある。
 最初に、天養元年(一一四四)の大庭御厨への義朝の濫行を相模守藤原頼憲が黙認したのは、頼朝と頼憲の間に連携があったからだとした上で、頼憲は鳥羽院近臣(仁平二年一二月五日に判官代頼憲とみえるが、翌三年正月五日に紀伊守頼憲が正五位下に叙せられたのは統子内親王給である)であったから、知行国主は鳥羽院またはその周辺であろうと述べられている。頼憲は憲方の子で、母は父の従兄弟で院近臣として著名な顕隆の娘である。保延三年三月に蔵人頼憲の叙爵が申請され認められている。その前年に死亡した白河院の女御道子の給分を合わせてのものであった。この一〇年後の義朝の叙爵は女御道子の子善子内親王の合爵であった。
 康治二年四月九日には藤原顕能の子蔵人右近将監重方が、故善子内親王合爵で叙爵している。重方は仁平二年三月八日には前斎院(統子内親王)御給で従五位上に叙せられ、翌三年九月一八日には二位宰相となった藤原兼長が前斎院のもとを訪れた際の取次として「職事宮内少輔重方」がみえており、統子内親王の職事であった。その妻は藤原清隆の娘である。重方は同四年には鳥羽院判官代であったことも確認できるが、久寿二年一〇月二六日には後白河天皇に入内した女御忻子の家司に補任されている。忻子は待賢門院の甥徳大寺公能の娘であった。保元の乱後の保元元年一〇月二七日に忻子が立后され中宮となると、頼憲は中宮大進、重方は権大進に補任されている。中宮亮に補任された藤原顕長は顕能の弟であるが、同じ日に待賢門院未給として従四位下に補任されている。


 以上により、白河院関係の女御・内親王の給分で合爵しているのは、待賢門院関係者であることと、それに藤原清隆が関わっていることが確認できた。


 

2019年4月 2日 (火)

隠岐国における庄園制の成立3

 文治四年に問題となったのは平家没官領である島(道)後の犬来牧と島(道)前の宇賀牧が関東御領とされ、預所兼地頭として起用された源頼政の娘を妻とした藤原重頼が、中村別符など他の所領も没官領だと主張して、一旦は認められたことである。その後、関係者の証言により没官領でないことが明らかとなったため、重頼の行為は押領と認定され、朝廷が幕府に押領の停止を命じたものである。
 牧は本来牛馬の飼育を主な目的として設定されたものであるが、宇賀牧が後に宇賀郷と呼ばれ、守護佐々木氏が地頭に補任され守護所が置かれたように、領域的庄園・公領に発展するケースも多い。待賢門院の御願寺円勝寺に寄進され成立した遠江国質侶庄もその前身は質侶牧であった。犬来牧と宇賀牧も実質的には庄園としての実態を備えていたと思われる。摂関家領としても摂津国垂水庄には東牧と西牧が含まれていた。
 前に述べたように、安元二年正月に藤原惟頼が隠岐守に補任された際には、松殿基房が知行国主であったと思われる。問題となった二つの牧は天承元年以前か惟頼が隠岐守であった際に松殿基房領として成立し、平家のクーデターにより平家領となったのではないか。不透明な点が多いが、待賢門院の御願寺が相次いで造営された大治年間に摂関家領も誕生し、次いで藤原惟頼が隠岐守であった安元二年以降に牧の設定がなされたのではないか。知布利庄と重栖庄も清盛の娘盛子が摂関家領を相続したことで平家関係者が庄官となり、後に没官領として東国御家人が地頭に補任されたのであろう。
 隠岐国の庄園としては山田別宮と美多庄がある。前者は保元三年と元暦二年の八幡宮領のリストにみえないので、それ以降の成立であろう。後者については鎌倉後期以降の史料しか残っておらず、庄園領主名、成立時期ともに不明である。


 

隠岐国における庄園制の成立2

 前隠岐守某は一一世紀末から一二世紀初頭のある時期に隠岐守であった可能性が高いとする。具体的には承徳二年正月二七日以前に退任した平正盛と嘉承元年に補任が確認できる某延行の間の時期ではないか。承徳元年八月二五日に隠岐守平正盛は伊賀国山田村と鞆田村の田畠家地を注進し、翌年には白河院が娘の菩提を弔うため建立した六条院に寄進・立券している。またこの時期には源義家の子義親が九州での濫行により隠岐国に配流されていた。
 平正盛の隠岐守補任とその後の源義親の乱平定を契機に、隠岐島が平家の支配下に入ったとの説が述べられるが、何の根拠もない憶測である。当時の正盛の地位も理解されていない。正盛は隠岐守から若狭守に遷任したのではなく、隠岐守退任と若狭守補任にはタイムラグがある。
 保安年間には摂関家領と家司による行事費用を分担を定めた「執所抄」が作成されており、忠実による摂関家領の集積・整理が進行していた。天承元年八月には、伊勢国(守源清雅ヵ)、和泉国(守藤原宗兼)、隠岐国(守大江行重ヵ)、壱岐国(守不明)、筑後国(守紀成忠ヵ)、筑前国(守藤原公章)から新立庄園の問題で訴えが出され、政府で前後策が協議されている。天承の前の大治年間は待賢門院の御願寺円勝寺(六勝寺の一)と法金剛院の造営が開始され、院への庄園寄進が容認されるようになった時期である。
 隠岐国における摂関家領としては近衛家領目録に冷泉宮領としてみえる知布利庄と摂籙渡庄目録に法成寺領としてみえる重栖庄がある。前者は一一世紀中頃の成立とされ、後冷泉宮→忠実→高陽院と継承されたというのが通説であるが、やはり忠実の時代に組み込まれたものではないか。後者も法成寺創設時ではなく、忠実の時代の成立ではないか。この時期に排他的領域を持つ庄園が次々と立券される動きがあり、それに対して天承元年に白河院主典代でもある大江行重が訴えた可能性が高い。

隠岐国における庄園制の成立1

 永久三年(一一一五)四月二八日丹後国留守所下文、この文書は東寺領大山庄の検注に関するものであるが、署判者の一人に「目代前隠岐守藤原朝臣」がみえることが注目される。当該日時点の丹後国は藤原忠実の知行国で、その家司源師俊(三六才)が丹後守であった。
 師俊は源俊房の子であるが、兄弟で御三条天皇の子輔仁親王の護持僧であった仁寛が鳥羽天皇の暗殺を企てたとされたこと=永久の変(一一一三)を契機に、村上源氏の主流は師房の弟顕房流に変わった。俊房四六才時の子であるためか、叔父師仲の養子となっている。美福門院の母(実母ではありえないが)方子も師俊の姉妹であった。
 師俊と忠実との関係を示す事例としては、嘉承元年(一一〇六)三月一四日に昇殿を認められた師俊(元俊仲)が六月一日に初めて参内し慶賀を申した際に、忠実が牛を貸し与えていることがある。また翌二年五月三日に摂関家領和泉国信達庄が兵部権大輔師俊の母(平重経娘)に預けられている。永久四年には尾張守に遷任するが、同五年六月四日には師俊が白河法皇に馬四疋を献上した際に、忠実が仲介をしている。その後は弁官として昇進を重ね、蔵人頭兼右大弁をへて長承二年に参議として公卿に列する一方、忠実の娘で鳥羽院に入内した泰子(高陽院)の皇后宮権大夫を務めている。
 師俊の子で公卿に進んだものはなかったが、その娘は忠実の子頼長との間に嫡子兼長を産み、別の娘は忠実ならびに高陽院の近臣源雅国との間に国保を産んでいる。
 話を前隠岐守某に戻すと、彼も摂関家家司であった可能性が高い。家司には複数の国司を歴任するものと、国司は一期のみで、後は目代や摂関家領の預所などを歴任するものがあるが、前隠岐守某は後者であり、必ずしも直近の時期に隠岐守であったとは限らない。元永元年(一一一八)正月に隠岐守に補任された藤原実盛については前に述べたが、一七年後の保延元年(一一三五)八月一八日には「隠岐前司実盛」が放生会前駈闕により勘当され(『長秋記」)、二七年後の久安元年(一一四五)閏一〇月三〇日に「前隠岐守藤原実盛俄出家」(『本朝世紀』)とある。春日祭に動員されたが、負担に堪え難しとして出家したとされる。また隠岐守退任以降、散位であったことがわかる。隠岐守退任後、国衙目代や庄園管理者として十分な実績を上げられなかったのであろうか。

 

隠岐守平繁賢

 一二世紀の隠岐守について述べたが、この平繁賢について言及していなかったので確認する。繁賢は越後平氏維貞の子で、康和五年(一一〇三)四月八日に来る二二日の斎院御禊の前駈が定められたが、その中に「平繁賢」がみえ、その時点では右衛門尉であった。次いで嘉承二年(一一〇七)正月には検非違使宣旨をうけている。四月一六日の関白忠実の賀茂詣では忠実の車の後に付いていた。そのため、忠実が高陽院に帰宅した際には忠実から馬を与えられている。永久二年三月一五日には院に対する詐欺犯人を使別当のもとに連行し(中右記)、七月二六日には比叡山大衆を抑えるため八瀬方面に派遣されている(同)。
 さらに繁賢は大江行重、源重時、藤原盛重ら検非違使六人として祭礼などの警固にあたっている。久安三年(一一四七)七月一九日に鳥羽法皇が源氏・平氏の輩を観覧しているが、そこに河内守源季範、左衛門尉源光保、源近康、源季頼、源為義、前右馬助平貞賢とともに「隠岐守平繁賢」がみえる。「国司一覧」で「前隠岐守ヵ」としているように、この時点の隠岐守は藤原信盛であり、繁賢の経歴、年齢を勘案すると、元永元年正月補任の藤原実盛の前任ではないか。隠岐守は源義親が六位で補任された対馬守と同様、六位の検非違使でも補任可能なポストである。
 後白川(河)院北面歴名には繁賢(後述の子孫も)はみえず、その活動時期は白河院と鳥羽院の時代であったと思われる(仁平三年閏一二月二八日死亡=本朝世紀)。保元の乱にはその子右衛門尉維繁が天皇方の命令を受けて平基盛(清盛の子)、源義康とともに参入しており、後白河天皇方であった。次いで、維繁の甥にあたる繁雅が元暦元年二月には頼朝に平家没官領となった信濃国東条庄内狩田郷領主職が本領であると愁訴して、返されている。後白河院方であったため、平家のクーデターで本領を没収されたのであろう。

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