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2019年3月 4日 (月)

石見守藤原朝兼について

 承安四年(一一七四)から治承元年(一一七七)にかけて知行国主である父藤原朝方のもとで石見守に補任された朝定の従兄弟朝兼(朝親の子、母は佐渡守藤原季兼の娘)について「尊卑分脈」では「石見守」と注記している。石見守が不明な時期は①応保~永万年間、②元暦一~二年、③建久年間後半等であるが、①は朝親が実父朝隆の死により叔父親隆の養子となって出雲守であった時期と重なり、且つ幼少であった従兄弟朝定が父朝方のもとで出雲守となる前であり、可能性はゼロであろう。
 ②は物理的には可能だが、この時の石見守は文治元年末に解任され、源賴朝が推薦した藤原宗家が知行国主となり、藤原業盛が石見守に補任されている。出雲国知行国主であった朝方と出雲守であった子の朝経には変更がなく、朝兼が解任された石見守であった可能性は低い。おそらくは賴朝追討の院宣を奉じた藤原光雅が知行国主、藤原能頼が石見守という体制が文治元年末まで続き、解任されたと思われる。
 残るは③であるが、朝兼の姉妹に藤原光長の室となった女性がいたことが注目される。光長は勧修寺流藤原光房の子で、吉田経房の同母弟である。正治元年七月一三日に石見守から和泉守に遷任した藤原宣房は光長(一一四四~一一九五)の二子で兄長房(一一六八~一二四三)の養子になっている。兄長房が知行国主であったと思われる。朝兼は宣房の前任者で、その際の知行国主は義理の兄弟である長房であったと思われる。当初は①ではないかとの見込みで検討したが、物理的に不可能であることが判明し、且つ建久三年補任の藤原経成(知行国主は九条良経)の後任である可能性が高いことが判明した。ちなみに光長の三子定高もまた兄長房の養子となり、跡を継承し、二条氏を号している。勧修寺流の藤原為隆-光房-光長-長房-定高はいずれも摂関家家司となり、定高も建永年間には知行国主九条良経のもとで越後守を務めている。

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