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2019年3月25日 (月)

源能俊の子孫達1

 最近は原稿が作成途中で中断してしまう事が多く、結果としてアップの本数が減少している。根拠不十分な結論を提示しても詮無い事である。
 源通親について論じていたがここまで言い切れるかとの疑問から中断してしまった。通親については、文治元年に頼朝が議奏公卿に推薦した背景を他の人物とともに検討していた。元木泰雄氏『源頼朝』では議奏公卿の人事に対する頼朝の実質的影響力はなかったとされたが、それはあり得ないことと考えたからである。そうした中、佐伯智宏氏「源通親-権力者に仕え続けた男の虚像」を読み、新たな疑問が生じた。それで新たな原稿を書き始めたが、再び中断したのである。
 佐伯氏は通親の出自を述べられているが、本文でも作成した系図でも通親の父雅通が雅定の実子とされており、唖然とした。雅通は雅実の嫡子顕通の嫡子であったが、父が四二才で死亡した時点で五才であったため、叔父雅定の養子となったのである。また雅通の母は待賢門院筆頭別当源能俊の娘である。能俊の晩年の子光隆は待賢門院分国出雲国と安芸国の国守に補任されていた。
 能俊には、源顕通の叔父源雅兼や中御門宗忠の子宗成の妻となった娘もいた。そして顕通の子雅通だけでなく、雅兼の子定房も父死亡時に一四才であったため雅定の養子となっている。同母兄雅頼はその家臣中原親能を通じて頼朝と連携したことで有名な人物である。以下では、顕通・雅定兄弟、雅通、雅頼・定房兄弟について述べていく。
 雅定は近衛天皇死亡後の王者議定への参加者で、女御得子が立后された際の皇后宮大夫である。嫡子であった異母兄顕通より一四才年少で、母についても二説あり不明であるが、父雅実の同母姉賢子が藤原師実の養女として白河天皇に入内し、堀河天皇を産んだことで、雅定も二〇才で参議となった兄ほどではないが、二六才で参議となっている。兄顕通が堀河天皇と白河院の下で昇進し、保安三年(一一二二)に死亡したのに対して、雅定は鳥羽院政開始時点で三六才で正三位権中納言であった。参議から三年で権中納言に進んだのは兄顕通の死により家の代表者となったからであるが、鳥羽院にも登用されていく。それを示すのが、保延六年一二月の左大将補任であった。このポストは藤原頼長が辞したため空席となったいたが、雅定のみならず、同じ権大納言である三条実行、その異母弟(待賢門院の同母兄)徳大寺実能も補任を望んでいた。鳥羽院から示された雅定昇進の案を崇德天皇が保留したのはそのためであったが、鳥羽院は直談判により雅定の補任を行った。

 

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