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2019年3月20日 (水)

美福門院の分国

 隠岐守藤原信盛についての記事で、信盛とともに藤原重家、藤原家輔、源雅範についても女院分国の国守であった可能性を指摘したが、家輔についてはやはり頼長との関係を重視すべきであろう。雅範についても美福門院御給で従四位上に叙せられている以外は不明である。
 これに対して藤原信盛と重家についてはすでに述べた経歴からして問題がない。重家の父顕輔は白河院の勘気を蒙って昇殿を止められたが、白河院の死後、藤原忠通の娘聖子が崇德天皇の中宮となった際に、中宮亮に補任されて政界に復帰し、崇德天皇の命により勅撰集編纂を行い、『詞花和歌集』を完成させた。
 重家が保延元年一二月二四日に周防守に補任された時点では九才であり、父顕輔が知行国主であったと思われる。天養元年正月二四日には筑前守に遷任し、さらに久安四年一一月五日には摂津守に転じているが、摂津国は女院の分国で乳母夫藤原親忠が国守であった。重家と親忠が相博し、親忠が筑前守に遷任している。そして女院分国上野国の国守信盛が死亡したことにともない、重家は仁平三年四月六日に上野守に遷任している。信盛は女院分国で国守を歴任した俊盛の兄弟であり仁平三年一月二日の除目で美福門院御給で正五位下に叙せられていた。
 親忠は久安五年末までに藤原清成と相博し、若狭守に遷任している。清成は清隆の子で、左兵衛佐を兼任し、美福門院の殿上人であった。仁平二年一月一〇日には美福門院判官代としてみえる。大宰大弐であった清隆が帥に昇進したことに伴い、大宰大弐を兼任していたが、久寿元年に死亡した。
 以上のように、五味氏が女院分国の国守とした人物以外に、藤原信盛、藤原重家、藤原清成を付け加えることができる。分国としては信盛、重家が国守であった時期の上野国を付け加える。
(補足)源雅範について、長承元年(一一三二)に鳥羽院が白河に建立した御願寺宝荘厳院領の平治元年時点(美福門院領)の目録には、近江国香御圓の預所(領家)としてみえる。

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