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2019年3月25日 (月)

源能俊の子孫達5

 通親が最初の妻としたのは花山院忠雅が家成の娘との間にもうけた娘であった。家成には前述の源雅頼・定房兄弟(ともに母は能俊の娘)の妻となった娘もいた。通親が忠雅の娘を妻として長男通宗(一一六八年生)をもうけたのは以上のような背景があった。通親は平清盛の異母弟教盛の娘(高倉院女房尾張)との間に二男通具(一一七一年生)をもうけている。佐伯氏は通親が高倉天皇に奉仕する中で見初めたのであろうと呑気なことを述べているが、教盛は父忠盛と待賢門院女房(藤原家隆の娘)との間に産まれ、崇德院の側近日野資憲の娘を妻としている。嫡子通盛(系図では通親の妻を通盛娘とするが、一一五三年生まれで年齢的に不可能である)、教経(一一六〇年生まれ)、教子(夫藤原範季とともに御鳥羽の養育にあたり、その娘重子は御鳥羽との間に順徳を産み、修明門院となる)はいずれも資憲娘の子であり、通親の妻となった女性も同様であろう。日野資憲は待賢門院と崇德院の女房であった妻が、藤原忠通の意図により即位した後白河天皇の勾当に引き抜かれ、子俊光が蔵人に起用されたため、乱の直前に出家している。
 通親と教盛娘との間に産まれた堀川通具は父の後室藤原範兼の娘範子の最初の夫である能円の娘との間に嫡子具実をもうけた。両者の間のもう一人の娘が通親の養女となり、御鳥羽との間に土御門を産んだ源在子(承明門院)である。さらに具実は藤原成親の子公佐の娘を妻としている。公佐は一条能保とともに頼朝の朝廷の情報収集の中心となった人物である。通具は成親の同母弟隆頼(盛頼)の娘との間に子具定をもうけている。
 以上、頼朝が議奏公卿に推薦した源通親の背景をさぐる中で、源能俊をはじめとする待賢門院・崇德系の人々が大きく関係していることを明らかにできた。当然のことながら頼朝もその一員である。従来の研究の問題点は鳥羽院の核となった勧修寺流藤原顕頼と顕季流藤原家成が美福門院に乗り換え、待賢門院と対立したと考えたことにあった。

 

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