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2019年3月25日 (月)

源能俊の子孫達4

 家保は鳥羽院の近臣であるが、その一方では永久五年(一一一七)一一月に璋子が女御として鳥羽天皇に入内した際の家司として兄長実とともにみえ、元永二年六月に補任された顕仁(崇德)親王の政所別当としてもみえている。蔵人に補任されたのが家保の子家成で、佐伯氏は白河院が家成を崇德天皇の近臣とする意図があったと評価している。天治元年一一月に璋子が中宮から院号宣下により待賢門院となると、家保は花山院忠宗(通親の妻の一人の父忠雅の父)とともに中宮権亮から別当に転じている。家保の娘が忠宗との間に産んだのが忠雅であり、一二才で父忠宗を喪った忠雅は家成のもとで育ち、その娘を妻として、嫡子兼雅をもうけている。家保は長承三年二月に参議となったが、二年後の保延二年正月には辞職し、その替わりに外孫忠雅が右近衛少将に補任されている。保延元年五月の待賢門院庁下文写(東大寺文書)の署判者には家保がみえないが、「左京大夫兼右馬頭摂津守藤原朝臣」とあるのが子の家成であろう。大日本古文書ではこれを藤原顕遠に比定しているが、顕遠なら「皇后宮少進摂津守」であり誤りである。「左京大夫兼左馬頭播磨守」(家成)を写し間違えたものである。
 通親の母方の祖父長信は基信の子であるが、基信の従姉妹(父師信の兄弟師基の娘)が白河院近臣のご意見番として外戚藤原公実の摂関補任を退けた源俊明の母で、その子が能俊となる。このことが能俊の娘の子顕通(通親の父)が長信の娘を妻とする背景にあったと思われる。


 

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