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2019年3月25日 (月)

源能俊の子孫達3

 次に源雅兼の子雅頼とその弟定房を比較する。ともに能俊の娘を母としている。三才年長の雅頼は一七才で父を喪った。そのためか参議に補任されたのは三七才であった。その四年前に二条天皇の蔵人頭に補任されたのは、前述のように母方の祖父能俊との関係であろう。雅定の養子となった定房は守仁親王の東宮権亮となり、保元二年には二七才で参議に補任されている。兄雅頼よりも一〇才若いのは養父の力であろう。三〇才で権中納言となり、その二年後の応保二年(一一六二)に雅定が死亡している。長寛二年に二条天皇の中宮育子のもとで中宮権大夫となり、承安二年に清盛の娘徳子が立后されたことにより皇后宮(育子)権大夫に転じている。
 後白河院庁下文の署判者としては二条天皇と六条天皇の在位中は雅通がみえるが、高倉天皇即位以後はみえず、前述のように滋子の皇太后宮大夫となっている。定房については永万元年六月二九日八条院庁下文に「権中納言兼中宮権大夫源朝臣」としてみえるが、後白河院庁下文では文治四年の二通に「大納言源朝臣」としてみえるのみである。雅頼は永暦元年と二年の院庁下文に「右大弁兼伊勢権守源朝臣」としてみえるのみである。以上により待賢門院の筆頭別当源能俊の孫三人は後白河院との間には距離をおいている。前述のように、待賢門院関係者は崇德院没落後は後白河の姉上西門院をその核としていたが、一方では二条天皇との関係を深めた人々もいた。
 雅通は藤原家保の娘(鳥羽院の寵臣家成の姉妹)を妻としていたが、久安五年(一一四九)には美福門院女房であった藤原長信の娘との間に通親が生まれた。雅通は同年に能俊の娘である母を喪い、翌年に三三才で参議に補任されている。雅通は反崇德院の立場をとった養父雅定よりも、待賢門院筆頭別当能俊の孫という実父顕通の立場を継承している。そのため昇進は遅れ気味であった。佐伯氏は通親が待望の嫡男であったとするが、家成の娘との間に男子が生まれなかったために通親が後継者となっただけである。


 

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