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2019年3月25日 (月)

源能俊の子孫達2

 まさに、治天の君鳥羽院と二三才になった崇德天皇の関係が微妙となったことを示す事例とされる。一年後の永治元年一二月に崇德が退位し、東宮であった得子の子体仁が近衛天皇として即位したのはそのためであった。同時に得子が立后され、雅定はそのトップである皇后宮大夫に補任された。
 雅定は甥雅通が成長するまでの中継ぎの家の代表者との見方も可能であるが、雅通の昇進は実父顕通、養父雅定と比べて遅い。得子立后時に皇后宮権亮に補任されているが、参議に補任されたのは母=能俊娘が死亡した翌年の久安六年で三三才の時であった。その昇進がスピードアップするのは保元の乱後である。母の実家との関係で、待賢門院-崇德との関係が懸念されたのではないか。それが崇德が排除された後に権大納言となり、以後は順調に昇進している。二条天皇が即位すると中宮権大夫から中宮大夫・大納言となり、仁安三年(一一六八)に高倉天皇が即位すると、母滋子のもとで皇太后宮大夫に補任されている。
 後白河院も待賢門院の子であったが、二条天皇の母懿子も藤原経実と待賢門院の同母姉の間に産まれている。二条の中宮育子の父については、藤原忠通説と徳大寺実能説があるが、徳大寺家が二条天皇とその子六条天皇の実質的外戚の役割を果たしていたことは確実である。滋子もその母は藤原顕頼の娘である。顕頼の経歴は最後の民部卿補任を含め、崇德退位以前のものである。角田文衛氏により、得子が鳥羽院の寵愛を受け始めた長承三年以降、顕頼が待賢門院と対立したとの説が出されたが、誤りである。保延五年(一一三九)には崇德天皇の御願寺成勝寺供養の勧賞として従二位に叙せられ、待賢門院が死亡する直前には成勝寺に丹波国福園御園を寄進し、その三年後に出家・死亡している。


 

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