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2019年3月

2019年3月25日 (月)

源能俊の子孫達5

 通親が最初の妻としたのは花山院忠雅が家成の娘との間にもうけた娘であった。家成には前述の源雅頼・定房兄弟(ともに母は能俊の娘)の妻となった娘もいた。通親が忠雅の娘を妻として長男通宗(一一六八年生)をもうけたのは以上のような背景があった。通親は平清盛の異母弟教盛の娘(高倉院女房尾張)との間に二男通具(一一七一年生)をもうけている。佐伯氏は通親が高倉天皇に奉仕する中で見初めたのであろうと呑気なことを述べているが、教盛は父忠盛と待賢門院女房(藤原家隆の娘)との間に産まれ、崇德院の側近日野資憲の娘を妻としている。嫡子通盛(系図では通親の妻を通盛娘とするが、一一五三年生まれで年齢的に不可能である)、教経(一一六〇年生まれ)、教子(夫藤原範季とともに御鳥羽の養育にあたり、その娘重子は御鳥羽との間に順徳を産み、修明門院となる)はいずれも資憲娘の子であり、通親の妻となった女性も同様であろう。日野資憲は待賢門院と崇德院の女房であった妻が、藤原忠通の意図により即位した後白河天皇の勾当に引き抜かれ、子俊光が蔵人に起用されたため、乱の直前に出家している。
 通親と教盛娘との間に産まれた堀川通具は父の後室藤原範兼の娘範子の最初の夫である能円の娘との間に嫡子具実をもうけた。両者の間のもう一人の娘が通親の養女となり、御鳥羽との間に土御門を産んだ源在子(承明門院)である。さらに具実は藤原成親の子公佐の娘を妻としている。公佐は一条能保とともに頼朝の朝廷の情報収集の中心となった人物である。通具は成親の同母弟隆頼(盛頼)の娘との間に子具定をもうけている。
 以上、頼朝が議奏公卿に推薦した源通親の背景をさぐる中で、源能俊をはじめとする待賢門院・崇德系の人々が大きく関係していることを明らかにできた。当然のことながら頼朝もその一員である。従来の研究の問題点は鳥羽院の核となった勧修寺流藤原顕頼と顕季流藤原家成が美福門院に乗り換え、待賢門院と対立したと考えたことにあった。

 

源能俊の子孫達4

 家保は鳥羽院の近臣であるが、その一方では永久五年(一一一七)一一月に璋子が女御として鳥羽天皇に入内した際の家司として兄長実とともにみえ、元永二年六月に補任された顕仁(崇德)親王の政所別当としてもみえている。蔵人に補任されたのが家保の子家成で、佐伯氏は白河院が家成を崇德天皇の近臣とする意図があったと評価している。天治元年一一月に璋子が中宮から院号宣下により待賢門院となると、家保は花山院忠宗(通親の妻の一人の父忠雅の父)とともに中宮権亮から別当に転じている。家保の娘が忠宗との間に産んだのが忠雅であり、一二才で父忠宗を喪った忠雅は家成のもとで育ち、その娘を妻として、嫡子兼雅をもうけている。家保は長承三年二月に参議となったが、二年後の保延二年正月には辞職し、その替わりに外孫忠雅が右近衛少将に補任されている。保延元年五月の待賢門院庁下文写(東大寺文書)の署判者には家保がみえないが、「左京大夫兼右馬頭摂津守藤原朝臣」とあるのが子の家成であろう。大日本古文書ではこれを藤原顕遠に比定しているが、顕遠なら「皇后宮少進摂津守」であり誤りである。「左京大夫兼左馬頭播磨守」(家成)を写し間違えたものである。
 通親の母方の祖父長信は基信の子であるが、基信の従姉妹(父師信の兄弟師基の娘)が白河院近臣のご意見番として外戚藤原公実の摂関補任を退けた源俊明の母で、その子が能俊となる。このことが能俊の娘の子顕通(通親の父)が長信の娘を妻とする背景にあったと思われる。


 

源能俊の子孫達3

 次に源雅兼の子雅頼とその弟定房を比較する。ともに能俊の娘を母としている。三才年長の雅頼は一七才で父を喪った。そのためか参議に補任されたのは三七才であった。その四年前に二条天皇の蔵人頭に補任されたのは、前述のように母方の祖父能俊との関係であろう。雅定の養子となった定房は守仁親王の東宮権亮となり、保元二年には二七才で参議に補任されている。兄雅頼よりも一〇才若いのは養父の力であろう。三〇才で権中納言となり、その二年後の応保二年(一一六二)に雅定が死亡している。長寛二年に二条天皇の中宮育子のもとで中宮権大夫となり、承安二年に清盛の娘徳子が立后されたことにより皇后宮(育子)権大夫に転じている。
 後白河院庁下文の署判者としては二条天皇と六条天皇の在位中は雅通がみえるが、高倉天皇即位以後はみえず、前述のように滋子の皇太后宮大夫となっている。定房については永万元年六月二九日八条院庁下文に「権中納言兼中宮権大夫源朝臣」としてみえるが、後白河院庁下文では文治四年の二通に「大納言源朝臣」としてみえるのみである。雅頼は永暦元年と二年の院庁下文に「右大弁兼伊勢権守源朝臣」としてみえるのみである。以上により待賢門院の筆頭別当源能俊の孫三人は後白河院との間には距離をおいている。前述のように、待賢門院関係者は崇德院没落後は後白河の姉上西門院をその核としていたが、一方では二条天皇との関係を深めた人々もいた。
 雅通は藤原家保の娘(鳥羽院の寵臣家成の姉妹)を妻としていたが、久安五年(一一四九)には美福門院女房であった藤原長信の娘との間に通親が生まれた。雅通は同年に能俊の娘である母を喪い、翌年に三三才で参議に補任されている。雅通は反崇德院の立場をとった養父雅定よりも、待賢門院筆頭別当能俊の孫という実父顕通の立場を継承している。そのため昇進は遅れ気味であった。佐伯氏は通親が待望の嫡男であったとするが、家成の娘との間に男子が生まれなかったために通親が後継者となっただけである。


 

源能俊の子孫達2

 まさに、治天の君鳥羽院と二三才になった崇德天皇の関係が微妙となったことを示す事例とされる。一年後の永治元年一二月に崇德が退位し、東宮であった得子の子体仁が近衛天皇として即位したのはそのためであった。同時に得子が立后され、雅定はそのトップである皇后宮大夫に補任された。
 雅定は甥雅通が成長するまでの中継ぎの家の代表者との見方も可能であるが、雅通の昇進は実父顕通、養父雅定と比べて遅い。得子立后時に皇后宮権亮に補任されているが、参議に補任されたのは母=能俊娘が死亡した翌年の久安六年で三三才の時であった。その昇進がスピードアップするのは保元の乱後である。母の実家との関係で、待賢門院-崇德との関係が懸念されたのではないか。それが崇德が排除された後に権大納言となり、以後は順調に昇進している。二条天皇が即位すると中宮権大夫から中宮大夫・大納言となり、仁安三年(一一六八)に高倉天皇が即位すると、母滋子のもとで皇太后宮大夫に補任されている。
 後白河院も待賢門院の子であったが、二条天皇の母懿子も藤原経実と待賢門院の同母姉の間に産まれている。二条の中宮育子の父については、藤原忠通説と徳大寺実能説があるが、徳大寺家が二条天皇とその子六条天皇の実質的外戚の役割を果たしていたことは確実である。滋子もその母は藤原顕頼の娘である。顕頼の経歴は最後の民部卿補任を含め、崇德退位以前のものである。角田文衛氏により、得子が鳥羽院の寵愛を受け始めた長承三年以降、顕頼が待賢門院と対立したとの説が出されたが、誤りである。保延五年(一一三九)には崇德天皇の御願寺成勝寺供養の勧賞として従二位に叙せられ、待賢門院が死亡する直前には成勝寺に丹波国福園御園を寄進し、その三年後に出家・死亡している。


 

源能俊の子孫達1

 最近は原稿が作成途中で中断してしまう事が多く、結果としてアップの本数が減少している。根拠不十分な結論を提示しても詮無い事である。
 源通親について論じていたがここまで言い切れるかとの疑問から中断してしまった。通親については、文治元年に頼朝が議奏公卿に推薦した背景を他の人物とともに検討していた。元木泰雄氏『源頼朝』では議奏公卿の人事に対する頼朝の実質的影響力はなかったとされたが、それはあり得ないことと考えたからである。そうした中、佐伯智宏氏「源通親-権力者に仕え続けた男の虚像」を読み、新たな疑問が生じた。それで新たな原稿を書き始めたが、再び中断したのである。
 佐伯氏は通親の出自を述べられているが、本文でも作成した系図でも通親の父雅通が雅定の実子とされており、唖然とした。雅通は雅実の嫡子顕通の嫡子であったが、父が四二才で死亡した時点で五才であったため、叔父雅定の養子となったのである。また雅通の母は待賢門院筆頭別当源能俊の娘である。能俊の晩年の子光隆は待賢門院分国出雲国と安芸国の国守に補任されていた。
 能俊には、源顕通の叔父源雅兼や中御門宗忠の子宗成の妻となった娘もいた。そして顕通の子雅通だけでなく、雅兼の子定房も父死亡時に一四才であったため雅定の養子となっている。同母兄雅頼はその家臣中原親能を通じて頼朝と連携したことで有名な人物である。以下では、顕通・雅定兄弟、雅通、雅頼・定房兄弟について述べていく。
 雅定は近衛天皇死亡後の王者議定への参加者で、女御得子が立后された際の皇后宮大夫である。嫡子であった異母兄顕通より一四才年少で、母についても二説あり不明であるが、父雅実の同母姉賢子が藤原師実の養女として白河天皇に入内し、堀河天皇を産んだことで、雅定も二〇才で参議となった兄ほどではないが、二六才で参議となっている。兄顕通が堀河天皇と白河院の下で昇進し、保安三年(一一二二)に死亡したのに対して、雅定は鳥羽院政開始時点で三六才で正三位権中納言であった。参議から三年で権中納言に進んだのは兄顕通の死により家の代表者となったからであるが、鳥羽院にも登用されていく。それを示すのが、保延六年一二月の左大将補任であった。このポストは藤原頼長が辞したため空席となったいたが、雅定のみならず、同じ権大納言である三条実行、その異母弟(待賢門院の同母兄)徳大寺実能も補任を望んでいた。鳥羽院から示された雅定昇進の案を崇德天皇が保留したのはそのためであったが、鳥羽院は直談判により雅定の補任を行った。

 

2019年3月20日 (水)

美福門院の分国

 隠岐守藤原信盛についての記事で、信盛とともに藤原重家、藤原家輔、源雅範についても女院分国の国守であった可能性を指摘したが、家輔についてはやはり頼長との関係を重視すべきであろう。雅範についても美福門院御給で従四位上に叙せられている以外は不明である。
 これに対して藤原信盛と重家についてはすでに述べた経歴からして問題がない。重家の父顕輔は白河院の勘気を蒙って昇殿を止められたが、白河院の死後、藤原忠通の娘聖子が崇德天皇の中宮となった際に、中宮亮に補任されて政界に復帰し、崇德天皇の命により勅撰集編纂を行い、『詞花和歌集』を完成させた。
 重家が保延元年一二月二四日に周防守に補任された時点では九才であり、父顕輔が知行国主であったと思われる。天養元年正月二四日には筑前守に遷任し、さらに久安四年一一月五日には摂津守に転じているが、摂津国は女院の分国で乳母夫藤原親忠が国守であった。重家と親忠が相博し、親忠が筑前守に遷任している。そして女院分国上野国の国守信盛が死亡したことにともない、重家は仁平三年四月六日に上野守に遷任している。信盛は女院分国で国守を歴任した俊盛の兄弟であり仁平三年一月二日の除目で美福門院御給で正五位下に叙せられていた。
 親忠は久安五年末までに藤原清成と相博し、若狭守に遷任している。清成は清隆の子で、左兵衛佐を兼任し、美福門院の殿上人であった。仁平二年一月一〇日には美福門院判官代としてみえる。大宰大弐であった清隆が帥に昇進したことに伴い、大宰大弐を兼任していたが、久寿元年に死亡した。
 以上のように、五味氏が女院分国の国守とした人物以外に、藤原信盛、藤原重家、藤原清成を付け加えることができる。分国としては信盛、重家が国守であった時期の上野国を付け加える。
(補足)源雅範について、長承元年(一一三二)に鳥羽院が白河に建立した御願寺宝荘厳院領の平治元年時点(美福門院領)の目録には、近江国香御圓の預所(領家)としてみえる。

2019年3月15日 (金)

持明院氏と女院分国4

 丹波守通基の後任となったのは武蔵守から遷任してきた藤原公信であり、通基自身は大蔵卿となり、嫡子通重が能登守に補任された。その交替時期は保延六年初めであり、能登国は女院分国因幡国に替わる分国として統子内親王に譲られた可能性が高い。通重は一〇代後半であったと思われ、約六年間在任した後に丹波守に遷任した。この時点では通重は成人しており、同母弟基家が久安四年正月に一四才で能登守に補任された。内親王の分国は能登国のままであった。同年一〇月一〇日には通基が五九才で死亡した。通基の嫡子であった丹波守通重も翌五年八月一日に死亡し、弟基家が持明院家の後継者となった。
 保元元年正月二七日に二二才となった基家は藤原家成の異母兄家長と相博して美作守に補任された。これに伴い内親王の分国も移動したが、家長は同年七月の保元の乱で崇德方となり敗北したため出家し、乱後の除目で、基家が能登守に復帰した。統子内親王の分国も能登国に戻った。
 待賢門院の分国については、五味文彦氏により源光隆が国守であった時期の安芸国が候補として 挙げられたのみであったが、大治二年末~保延六年初の因幡国、大治三年~長承三年初の丹波国、大治四年~天養元年の石見国、大治五年末~保延五年初の出雲国、保延五年初~久安元年(光隆死亡)の安芸国、保延六年初~久安元年(女院死亡)の能登国があった。ただし、安芸国と能登国については娘統子内親王の分国であった可能性もある。
  待賢門院分国から娘統子内親王の分国への移行を持明院家の動向と併せてみてきたが、女院の分国から崇德院の分国へ移行したものもあったはずである。その候補としてあげられるのが、藤原資憲と藤原宗長が国守となった下野国で、藤原宗国補任の四年後に源義朝が国守に補任され、同時に叙爵していた。その実現の背後に藤原清隆の存在があったことはすでに述べた。義朝が後白河院方になったことに疑問を持つ人があるかもしれないが、後白河即位により待賢門院関係者は分断され、崇德の最側近日野資憲すら出家することしか選べなかった。清隆とその子光隆や閑院流の人々も後白河院方を選択せざるを得なかった。保元の乱で崇德が没落した後も、頼朝は上西門院に仕えたが、異母兄朝長は、二条天皇の中宮(美福門院の娘姝子内親王)に仕える中宮少進に補任された。その職員も美福門院と二条天皇の関係者から選ばれている。二条天皇の母懿子は待賢門院の同母姉公子を母としている。

持明院氏と女院分国3

  丹波守時代の通基は、長承三年八月一三日には法金剛院塔と経蔵の上棟に際しての鳥羽院と女院の御幸にも因幡守公通とともに供奉している。そして保延二年一〇月一五日には通基が造進した法金剛院五重塔の供養が行われた。同年一二月一三日に内大臣となった藤原頼長が各所を拝賀したが、女院への取次を行ったのが通基であり、別当の中心であった。
 保延六年(一一四〇)四月、公通に替わって因幡守に補任されたのは能登守から遷任した藤原季行であった。父敦兼は白河院、鳥羽院、待賢門院の別当である。季行の後任の能登守には通基の子通重が補任された。国司は初任で年齢は一〇代後半と思われ、父通基が知行国主であったと思われる。この時点で能登国は一四才である女院の娘統子内親王の分国とされたと思われる。後述のように保延五年初めに出雲守から安芸守に遷任した源光隆は、内親王の御所の造営に着手している。
 康治二年七月一一日には女院の第二皇女である前斎院統子内親王が新造された三条室町殿に渡御したが、内親王は女院とともに仁和寺から渡御した。同じ日に父鳥羽院は隣接する三条西洞院の崇德院の御所に御幸している。公卿と殿上人が供奉したが、その中心が職事大蔵卿通基、越中守源資賢、右兵衛権佐藤原憲方であった。内親王の御所は待賢門院の分国安芸国の国守源光隆が 二条富小路で造進に着手したが、光隆が養子となっており、旧屋の所有者であった藤原基隆後家との関係が悪化したために、場所を変更して造進したものである。
 源光隆は女院の別当の筆頭源能俊の子の晩年の子であったため、その将来を同じ女院の別当藤原基隆に託したのだろうが、年下の基隆が能俊より先に死亡したことで、関係に亀裂が生じた。光隆は、待賢門院女房で自らの補佐役である大舎人頭源家行の娘を妻としたのである。この康治二年の渡御の前から待賢門院の分国と庄園の一部を統子内親王分とする作業が行われていた。

持明院氏と女院分国2

 清隆と忠隆が鳥羽院別当も兼任していたのに対して、通基は女院別当に専念しており、実質的に女院別当の中核となる人物となった。通基が大治二年末に武蔵国から遷任した因幡国は、女院の侍でしかなかった卜部兼仲が国守に補任されたことで周囲から驚きの目で迎えられた石見国とともに、女院の分国とされたと思われる。次いで長承三年二月二四日には通基の娘を妻とする西園寺公通と相博する形で通基は丹波守に遷任した。後述のように女院分国は因幡国のままであった。
 時代が相前後するが、因幡守時代の通基は大治四年一月に摂政藤原忠通の娘聖子が崇德天皇のもとに入内した際の儀式で三献をつとめ、同年四月一九日鳥羽院と待賢門院の第二皇女が賀茂斎院となった際には供奉している。そして前述のように八月一六日には女院別当に補任され、翌五年一月六日の除目で従五位下から正五位下に加階され、驚きを持って迎えられた。次いで長承元年一月九日の除目で因幡守重任を認められた。この除目では備前守平忠盛と武蔵守藤原公信も重任を認められた。長承三年二月一七日の法勝寺金字一切経供養に伴う勧賞で通基は女院分として正四位下に叙され、一週間後の二四日に丹波守に遷任した。
 通基の後任として因幡守に補任されたのは通基の娘を妻とする西園寺公通であった。公通は六才で叙爵後、大治二年(一一二七)に一一才で丹波守に補任された。丹波国は父通季の知行国であった。翌年、三九才の父を喪ったが、その地位に変更はなかった。これについて五味文彦氏は、公通が院近臣藤原長実に婿入りし、長実が知行国主の座を継承したと評価している。ただ、公通の子に長実の娘を母とするものは確認できず、持明院通基の娘との間に二人の男子をもうけている。前述のように、父通季と聟入りした長実が死亡したのにもかかわらずに公通が丹波守であり続けたのは、通季死亡後に丹波国が待賢門院の分国とされ、甥公通の地位が継続されたのではないか。長実が知行国主であった時期にも、その上に分国主待賢門院がいたのである。
 因幡守補任時の公通は一八才であり、待賢門院分国が丹波国から因幡国に遷り、そのもとでの国守補任ではなかったか。因幡守在任中に公通は従四位下、従四位上に叙せられ、右少将を兼ねて、崇德天皇への昇殿を許されている。二二才となった保延六年四月には因幡守を辞して、翌永治元年一二月二日には右中将に補任され、七日に近衛天皇が即位すると、新帝への昇殿を認められ、二六日には正四位下に叙せられている。

持明院氏と女院分国

  通基についてはすでに述べたが、叔父宗通とその子達との関係で叙爵し、右衛門佐をへて大治元年頃には武蔵守に補任された。それと平行して待賢門院女房(源師仲の娘)を妻とする中で、女院との関係を強めたと思われる。大治二年一〇月には女院の子崇德天皇から昇殿を認められ、殿上人となっている。通基の子基家は長承元年(一一三二)生であり、その他の子女の生年は不明だが、同母兄として通親と通重がいる。通重は徳大寺実能(系図の公能は誤り)の娘との間に久安三年(一一四七)に能保が生まれている。また母が不明な娘が西園寺公通との間に、久安元年に嫡子実宗を産んでいる。通重は大治初年頃の生まれで、それ以前に通基が待賢門院女房を妻としたことがわかる。
 待賢門院の院号宣下は天治元年一一月二四日で、女院別当には従来の中宮時の関係者が横滑りしたが、白河院が死亡後の大治四年八月二八日には別当が新たに補任された。讃岐守藤原清隆、藤原隆教(忠隆の子)、修理大夫藤原顕盛(長実の子)、備中守藤原忠隆、美濃守藤原顕保(家保の子)、因幡守藤原通基等である。
 この内、隆教は忠隆と藤原顕隆の娘で崇德天皇の乳母となった栄子の間に生まれた嫡子であったと思われる。康治元年七月五日の土御門殿行幸に供奉しなかった事により、左兵衛佐を停任され、一〇月二二日に還任したが、一二月五日には父忠隆に先立ち死亡している(『本朝世紀』)。顕盛は鳥羽院の不興を買い、父長実から譲られた修理大夫を解任され、長実死亡からわずか五ヶ月後の長承三年正月二五日に死亡した。顕保も家保の嫡子であったが、鳥羽院の寵臣となった同母弟家成により公卿昇進を妨げられ、播磨守在任中の久安元年に死亡した。

丹波守西園寺公通2

 話を公通に戻すと、大治三年六月に通季が死亡した時点で、丹波国は待賢門院の分国とされたのではないか。そのもとで大治五年一二月に長実が知行国主となることは可能である。美福門院の分国越前国では永暦元年(一一六〇)に国守藤原季能の父俊盛が奉行として庄園の免判に花押を加えていた。俊盛は天養元年(一一四三)から仁平二年(一一五二)にかけては女院分国越前の国守であった。女院と知行国主の関係の詳細は不明であるが、長実は永久五年に璋子が鳥羽天皇に入内した際には女御政所別当であり、元永二年六月一九日に顕仁(崇德)親王の家の政所別当でもあった。知行国主長実が死亡しても丹波守公通の地位に影響がなかったのは、丹波国が女院分国であったからではないか。保安元年正月に因幡国は藤原宗通の知行国となり、その養子時通が国守に補任されたが、七月に宗通は死亡した。しかし因幡守時通の地位には影響がなく、知行国主が実父長実になった。これも因幡国が白河院の分国であったためである。
 長承三年二月には公通と嫡子実宗等を産んだ女性の父藤原通基が相博し、通基が丹波守、一八才となった公通が因幡守に補任されている。これに伴い女院分国は因幡国に遷ったが、女院庁の別当の中心である通基は、女院の御願寺法金剛院五重塔の造営を行い、長承三年八月には塔の供養が行われている。女院分国と女院の有力近臣が国守ないしは知行国主である国の識別は難しいが、公通の父通季並びに公通を聟とした長実が死亡しても丹波守として公通の地位に変化がなかった背景を検討した。

丹波守西園寺公通1

 公通は西園寺家通季の嫡子で、一一才であった大治二年(一一二七)一月に父の知行国であった丹波国の国守に補任されたが、翌三年六月に父が死亡した。ところが丹波守の地位には変更がなく、長承三年(一一三四)二月に因幡守に遷任している。五味文彦は公通が藤原顕季の嫡子長実の聟となり、丹波国は父通季から養父長実の知行国となったとの解釈を示された。丹波国が長実の知行国であることは確認できるが、公通の聟入は大治五年一二月の事であり、父の死から二年半後のことである。また、長実も長承二年八月に死亡したが、これまた公通の丹波守としての地位には影響を与えていない。この点について検討したい。
 公通は西園寺家の後継者であり、長実の養子となるのではなく、その娘聟となったはずである。その娘とは誰であろうか。長実の娘としては中御門宗能の妻となり、嫡子宗家を産んだ女性と近衛天皇の母得子(美福門院)、夫や子は不明な長子が知られている(尊卑分脈)。生年がわかるのは永久五年(一一一七)生の得子のみである。宗能の妻については、子宗家が保延五年(一一三九)生であるので、得子に年齢が近い可能性が高い。
 残る長子もまた同世代で、公通を聟としたとの説は可能だが、子をなさなかったにしても系図に記載がないのは解せない。公通と同い年である「鍾愛女子」得子の聟であった可能性もある。それが鳥羽院の目にとまり、結果的に得子は鳥羽院の後宮に入ったのではないか。また得子の母は長実の後家方子であると系図は記すが、方子は長実より年上で、得子が誕生した時点で五二才であり、生年が正しければその成り立つ可能性はない。

2019年3月10日 (日)

諸陵助宗親について

 池禅尼ならびに待賢門院判官代宗長の弟とされる宗親について、『中右記』保延二年一二月二一日条に関連記事があることに気づいた。杉橋氏の論考に否定的な宝賀氏を含め、これまでの研究で言及されたことはないようである。 統子内親王御給で任官、叙任した人物を確認する中で偶然遭遇した。統子内親王が母待賢門院からその所領の一部を譲られた時期を考えるためであった。
 まさに同日の小除目で藤宗親が諸陵助(正六位上相当)に補任されている。その前には二一才の源師仲と一二才の藤伊実が侍従(従五位下相当)に、年齢不詳の藤為益が縫殿頭(従五位下相当)に補任されたことが記されている。師仲は四年前、伊実は六年前に叙爵しており、為益もすでに叙爵していたと思われるが、宗親は叙爵前であった。宗親には系図にも関連する記載がなく、叙爵することなく死亡したと考えられる。
 兄宗長は大治五年正月には「五位判官代宗長」とみえ、叙爵した上で待賢門院判官代であったことが確認できる(『中右記』)。和泉守に補任された時期を示すデータはないが、前任者である父宗兼は長承三年末に重任している。宗親が諸陵助に補任された前後に、和泉守が宗兼から子宗長に交替したと思われる。兄宗長の叙爵が確認できる六年後にも宗親は叙爵しておらず、両者の間にはそれ以上の年齢差があったのであろう。
 源師仲は師時の子、藤原伊実は伊通の子であり、叙爵年齢の違いは親の差(その時点ではともに権中納言であるが、年齢は伊通が一七才若い)によるのだろう。宗長と宗親の父宗兼は院の近臣ではあったが、その位階は従四位上であり、諸陵助に補任された時点の宗親は二〇才前後で、その生年は永久五年(一一一六)前後ではないか。池禅尼はその時点で三三才で二男頼盛はすでに生まれている。宗長は二〇才代後半であろうか。
  『尊卑分脈』でも宗長には「従五位上下野守」、宗賢「下野守従五位下」(ただし宗賢が歴代の下野守の中に入る適切な時期はない)との注記がある。宗長は仁平三年の死亡時で四〇才前半であったと思われる。宗親も三〇才過ぎには叙爵可能であったはずであり、極官が「諸陵助」であるならば、それ以前に死亡したことになる。当然、大岡宗親とは別人であり、牧の方(以前述べたように政子=一一五七年生と同世代か)が生まれる前に死亡した人物となる。杉橋氏とその関係者は一刻も早くその説を撤回すべきである。それは源為義を義親の子と信じる人々も同様である。その自浄能力のなさには言葉を失ってしまう。

2019年3月 8日 (金)

藤原実政と鹿子木庄3

 実政失脚後の鹿子木庄領家職はその娘(公実室)、孫娘(経実室)をへて曾孫隆通(願西)が継承した。願西が寄進先として藤原忠実の娘高陽院が養女とした内親王を選んだ背景には、鳥羽院への接近とともに、日野家と関係の深い摂関家との関係もあった。それは崇德天皇の皇后となった聖子(忠通の娘=皇嘉門院)も同様であり、その院司には崇德天皇(待賢門院)の関係者とともに摂関家の関係者が含まれていた。
 大治五年(一一三〇)二月に立后された際の皇后宮大夫は『中右記』の記主権大納言中御門宗忠、権大夫は右衛門督藤原伊通、亮は藤原顕輔(大治二年に白河院の勘気を蒙り昇殿を停止されていたが、今回復帰)、権亮右中将藤原重通、大進藤原家長(院の寵臣家成の異母兄)、権大進高階泰兼と院関係者が中心であった。これに対して、久安六年二月の院号宣下までの皇太后大夫は権大納言藤原宗能、権大夫は中納言藤原重通、亮は藤原顕輔であった。宣下後の同年七月には勧修寺流藤原光房(吉田経房の父)が皇嘉門院判官代であったことが確認できる。光房は為房の長子為隆の嫡子であるが、同母兄憲方は摂関家との関係はうかがわれないが、光房は院とともに摂関家との間にも密接な関係を結んでいた。結果として皇嘉門院領が九条家領となったように、女院庁の構成員は忠通の家司源季兼の子季長のように、しだいに摂関家関係者が中心となっていったと思われる。

藤原実政と鹿子木庄2

 ただしこの女性は保延元年(一一三五)に生まれ、久安四年(一一四八)に一四才で死亡している。これにより本家職は内親王の菩提寺勝功徳院をへてその本寺仁和寺に移ったとされる。保延六年一〇月二七日には高陽院が新造された正親町殿に渡御しているが、その際に鳥羽院とともに姫君(叡子内親王)も渡御している。
 安元二年(一一七六)三月二日鹿子木庄文書目録(東寺百合文書)には「庄号時院使主典代俊弘立券〈保延五年十一月日〉一通」とあり、高陽院内親王への寄進は保延五年七月二八日の泰子への院号宣下、八月一七日の体仁親王(近衛)の立太子の直後に行われている。泰子の鳥羽院への入内は長承二年(一一三三)、翌年には女御、さらには皇后宮に立后しており、鳥羽院が女御であった得子の子を子のいない高陽院の養女として将来に備えたのであろう。この目録を作成するとともに、同日に預所を補任した寛杲は願西の子であった。
 長承三年三月一九日に泰子の皇后宮に関する除目が行われているが、大夫は異母弟頼長、権大夫源師俊と亮源信雅は父忠実の家司と摂関家関係者が占め、権亮以下の実務役人は鳥羽院近臣が配置されている。権大進日野資憲は、後には鳥羽院庁下文の署判者としてもみえるが、その一方では摂関家家司の側面も併せ持つ日野実光の子であった。実光とその同母弟で、且つ資憲の妻の父である資光は大宰大弐実政の孫でもある。現地に派遣された「主典代俊弘」についても鳥羽院庁下文に署判している主典代とは別人だが、院の関係者であろうか。

藤原実政と鹿子木庄1

 高校日本史教科書に寄進地系荘園の典型として扱われる鹿子木庄については、石井進氏による事書作成の背景の解明以降見直しが進んでいる。ここでは寄進を受けた藤原実政について述べてみたい。
 藤原実政は日野資業の子で、学問を修めて後三条天皇の親王時代(藤原氏関係の皇子が誕生すれば皇位継承は不可)の学士となり、その姉妹が貞仁(白河)の乳母となったこともあり、貞仁の東宮学士となり、後三条が即位すると左中弁に登用され、譲位後は院庁別当となった。
 後三条の急死後も引き続き白河天皇に登用され、蔵人頭を経て承暦四年(一〇八〇)には従三位参議、永保四年には大宰大弐に補任され、現地に下向した功労により従二位に叙せられた。ところが宇佐八幡宮との紛争により、実政は子の左少弁敦宗とともに解官され、配流先の伊豆国で死亡した。敦宗は後に許され、大学頭・東宮学士を歴任したが、日野氏の惣領は実政の異母兄実綱流に移った。
 鹿子木庄領家の地位は実政の失脚により、その娘を妻としていた閑院流藤原公実をへて、両者の間に生まれた娘を妻とした藤原経実に移った。鹿子木庄を高陽院内親王に寄進した願西とは公実女子と経実の間に生まれた隆通の法名である。公実と経実は公卿に進んだが、隆通は正五位下刑部大輔にとどまったため、権威を借りるため高陽院内親王に寄進した。
 問題は高陽院内親王であるが、鳥羽天皇の皇女との解釈一般的であるが、鎌倉佐保氏「寄進地系荘園を捉え直す-鹿子木荘の問題点-」(『地歴・公民資料』、実教出版社)には高陽院泰子との解釈がなされている。「事書」が内親王と院を誤記したかとも一瞬思ったが、やはりあり得ない解釈であり、美福門院得子の第一皇女叡子内親王が高陽院の養女となっており、この高陽院姫君と呼ばれた女性であろう。

2019年3月 6日 (水)

XPを使う2

 修理が終わったラデオン7700は自作機(i7-3770T、2012年)で利用し、4Kモニターの導入に役立った。これもミニではあるがDP2ソケットのタイプであった。2015年に9020を導入するまではこれが主力であった。2年前に電源をノーマルに交換し、GT1050tiのカードを利用した。それ以前にラデオン360を利用していた。この9020(デル専用電源)で利用できたカードが、3020(デル専用電源)では利用できなかったのはなぜかわからない。とりあえず3020は家族用とした。
 自作機は、7010のスモールデスクトップ版の3770の65W版と交換した。3770Tは35Wで、スモールデスクトップにふさわしいと思ったからである。ビデオカードは460を使用していたが、三画面(1K+2K+4K)にはやや力不足の状況であった。それを1KをEIZOのスクエアタイプのものと交換したこともあり、1050tiを再度購入した。二年前と同じくドスパラダイスのみで扱っているもので、比べてみたが変更点はなく同製品であった。たまたま捜し物をしていたらその際の送り状があり、1万5000円ほどであった。今回は旧製品となっていたが1万6千円(ただしこれが4Mタイプでは最安。2年前も同店が最安であった)。自作機は2012年版であったが、問題なく使用できた。本来は460カードを3020機で利用しようと思ったが、不可であり、別のi5-3470機での利用を考えたい。現在は3770を利用しているが、これより新しく、性能はよいので。
 4Kは出始めのデルの2715であるが、ブルーライトカットなどの目の負担を軽減する機能がないので、メイン機としては不安があり、31.5型も検討したが、当方は縦書きを重視するため、26.5型スクエアタイプを選択した。難点はデジタルはDPとDVIのみでHDMIに対応していないことで、モデルチェンジに期待しつつも、望み薄として購入に踏み切った。明るさとコントラストはネットの情報に基づき設定した。当初は暗い感じがしたが、なれてくると十分で、目に優しいものである。縦書も31.5型より縦が長く、字が大きく表示できる。史料編纂所と国会図書館の蔵書を表示されても快適である。アマゾンでプライム会員限定であったため、とりあえず1ヶ月使用して1年会員となった。注文した商品が早く到着するようになったが、別に急がないケースが大半である。在庫さえあれば翌日配達も珍しくない。自作機の方には碁マネージャー名人をインストールして、とりあえず岸本左一郎『活碁新評』と同『常用妙手』のデジタル化を図りたい。棋譜を画像として保存してワード、一太郎、花子、インデザインに組み込むことも検討したいがとりあえず、碁マネージャー名人は直接にワープロに編集した棋譜を貼り付けることが可能だとのことである。論文作成は8700デル機で行い、棋書のデジタル化は3770自作機で行いたい。ここまでXP自作機で行ったが、ストレスなくできた。現在の最大の課題は、ロジクールK810ワイアレスキーボードの後継機問題である。大変よい製品で2台利用していたが、なぜ新型が発売されないのかわからない。その他の安価なK480、K380はPCとの接続が起動時に担保されていないという問題がある。

XPを使う1

 過去のソフト(囲碁と子ども用)を使うため、デスクトップ(2008年自作機)の一台にウィンドウズXPをインストールしたが、日に日に使用する環境が厳しくなっていることを実感した。ヴィルス対策が不十分なのは理解して使うしかないが、とりあえずドライバーのダウンロードぐらいで、必要最小限にネットにアクセスし、フリーのウィルスソフトはインストールしたい。
 ところが、XPサービスパック3とともにインストールされたIE6では何も表示されない。仕方ないので別のウィンドウズ10のパソコンで検索、ダウンロードした。最初に選んだのは、現在もXPをサポートしているサファリである。マックに標準装備されているもののウィンドウズ版であるが、クリックしても一部のサイト(ユーチューブ等)しか表示されない。そこで、XP対応のIE8をダウンロードしてインストールしたが、グールグルとMSNの検索画面は表示されたが、ヤフーは表示されず、検索先も表示されないのが多く、使えない。ということで、サポートは終了したが、XPとVISTA対応のグーグルクロームをダウンロードしインストールしたところ、とりあえず、ココログも表示され、現在、ブログの原稿を入力している。ただし、クロームの最初の画面には、サポートが終了し、更新プログラムを提供しないことが述べられている。時間がたてば、利用不能のサイトが増えるであろうが、現在はそこそこ使える。
 マイクロソフトオフィスは、2010まで可能だが、とりあえず新フォーマットになった2007のプロ版をインストールした。一太郎は13、2005、2011をインストールした。13はATOK16
付属の外字フォントを利用するためで、その後、2005にアップした。13の次から2004と西暦でバージョンが表記された。2008も購入していたが、とりあえずCDがみあたないので2011を次にインストールした。2014までXPに対応している。
 ADOBE製品はクリエイティブスーツ2までがXP用であるが、とりあえずCDが見当たらないので後日にする。このPCで利用するとすればアクロバットぐらいか。
 昨夏久しぶりに新品デスクトップPC(i7-8700、GT1060)を購入し、それまでのPC(オークションで入手したi7-4790搭載のビジネス機オプティプレックス9020は子どもが利用していた3020と交換した。9020は電源を普通のタイプに交換できたが、3020は同じ変換ケーブルが使用できなかった。モニターもDPが1つとVGAが1つしかなく、以前補助ソケットなしのGT640のカードが使えた気がしたが、その他(ラデオン360、GT1050ti)を含めてことごとく認識せず。だめもとでGT640をXP用PCに刺すとなんとか利用できた。以前、ラデオン7700を購入して刺したところ砂嵐現象が生じ、業者に修理に出すとともに、GT640のカードを購入した。GT640のカードでは唯一VGA、DVI、HDMIに加えてDPソケットがあり、四画面利用がうりであったが、大変よい買い物であった。

2019年3月 4日 (月)

石見守藤原朝兼について

 承安四年(一一七四)から治承元年(一一七七)にかけて知行国主である父藤原朝方のもとで石見守に補任された朝定の従兄弟朝兼(朝親の子、母は佐渡守藤原季兼の娘)について「尊卑分脈」では「石見守」と注記している。石見守が不明な時期は①応保~永万年間、②元暦一~二年、③建久年間後半等であるが、①は朝親が実父朝隆の死により叔父親隆の養子となって出雲守であった時期と重なり、且つ幼少であった従兄弟朝定が父朝方のもとで出雲守となる前であり、可能性はゼロであろう。
 ②は物理的には可能だが、この時の石見守は文治元年末に解任され、源賴朝が推薦した藤原宗家が知行国主となり、藤原業盛が石見守に補任されている。出雲国知行国主であった朝方と出雲守であった子の朝経には変更がなく、朝兼が解任された石見守であった可能性は低い。おそらくは賴朝追討の院宣を奉じた藤原光雅が知行国主、藤原能頼が石見守という体制が文治元年末まで続き、解任されたと思われる。
 残るは③であるが、朝兼の姉妹に藤原光長の室となった女性がいたことが注目される。光長は勧修寺流藤原光房の子で、吉田経房の同母弟である。正治元年七月一三日に石見守から和泉守に遷任した藤原宣房は光長(一一四四~一一九五)の二子で兄長房(一一六八~一二四三)の養子になっている。兄長房が知行国主であったと思われる。朝兼は宣房の前任者で、その際の知行国主は義理の兄弟である長房であったと思われる。当初は①ではないかとの見込みで検討したが、物理的に不可能であることが判明し、且つ建久三年補任の藤原経成(知行国主は九条良経)の後任である可能性が高いことが判明した。ちなみに光長の三子定高もまた兄長房の養子となり、跡を継承し、二条氏を号している。勧修寺流の藤原為隆-光房-光長-長房-定高はいずれも摂関家家司となり、定高も建永年間には知行国主九条良経のもとで越後守を務めている。

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