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2019年3月15日 (金)

持明院氏と女院分国4

 丹波守通基の後任となったのは武蔵守から遷任してきた藤原公信であり、通基自身は大蔵卿となり、嫡子通重が能登守に補任された。その交替時期は保延六年初めであり、能登国は女院分国因幡国に替わる分国として統子内親王に譲られた可能性が高い。通重は一〇代後半であったと思われ、約六年間在任した後に丹波守に遷任した。この時点では通重は成人しており、同母弟基家が久安四年正月に一四才で能登守に補任された。内親王の分国は能登国のままであった。同年一〇月一〇日には通基が五九才で死亡した。通基の嫡子であった丹波守通重も翌五年八月一日に死亡し、弟基家が持明院家の後継者となった。
 保元元年正月二七日に二二才となった基家は藤原家成の異母兄家長と相博して美作守に補任された。これに伴い内親王の分国も移動したが、家長は同年七月の保元の乱で崇德方となり敗北したため出家し、乱後の除目で、基家が能登守に復帰した。統子内親王の分国も能登国に戻った。
 待賢門院の分国については、五味文彦氏により源光隆が国守であった時期の安芸国が候補として 挙げられたのみであったが、大治二年末~保延六年初の因幡国、大治三年~長承三年初の丹波国、大治四年~天養元年の石見国、大治五年末~保延五年初の出雲国、保延五年初~久安元年(光隆死亡)の安芸国、保延六年初~久安元年(女院死亡)の能登国があった。ただし、安芸国と能登国については娘統子内親王の分国であった可能性もある。
  待賢門院分国から娘統子内親王の分国への移行を持明院家の動向と併せてみてきたが、女院の分国から崇德院の分国へ移行したものもあったはずである。その候補としてあげられるのが、藤原資憲と藤原宗長が国守となった下野国で、藤原宗国補任の四年後に源義朝が国守に補任され、同時に叙爵していた。その実現の背後に藤原清隆の存在があったことはすでに述べた。義朝が後白河院方になったことに疑問を持つ人があるかもしれないが、後白河即位により待賢門院関係者は分断され、崇德の最側近日野資憲すら出家することしか選べなかった。清隆とその子光隆や閑院流の人々も後白河院方を選択せざるを得なかった。保元の乱で崇德が没落した後も、頼朝は上西門院に仕えたが、異母兄朝長は、二条天皇の中宮(美福門院の娘姝子内親王)に仕える中宮少進に補任された。その職員も美福門院と二条天皇の関係者から選ばれている。二条天皇の母懿子は待賢門院の同母姉公子を母としている。

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