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2019年3月 8日 (金)

藤原実政と鹿子木庄3

 実政失脚後の鹿子木庄領家職はその娘(公実室)、孫娘(経実室)をへて曾孫隆通(願西)が継承した。願西が寄進先として藤原忠実の娘高陽院が養女とした内親王を選んだ背景には、鳥羽院への接近とともに、日野家と関係の深い摂関家との関係もあった。それは崇德天皇の皇后となった聖子(忠通の娘=皇嘉門院)も同様であり、その院司には崇德天皇(待賢門院)の関係者とともに摂関家の関係者が含まれていた。
 大治五年(一一三〇)二月に立后された際の皇后宮大夫は『中右記』の記主権大納言中御門宗忠、権大夫は右衛門督藤原伊通、亮は藤原顕輔(大治二年に白河院の勘気を蒙り昇殿を停止されていたが、今回復帰)、権亮右中将藤原重通、大進藤原家長(院の寵臣家成の異母兄)、権大進高階泰兼と院関係者が中心であった。これに対して、久安六年二月の院号宣下までの皇太后大夫は権大納言藤原宗能、権大夫は中納言藤原重通、亮は藤原顕輔であった。宣下後の同年七月には勧修寺流藤原光房(吉田経房の父)が皇嘉門院判官代であったことが確認できる。光房は為房の長子為隆の嫡子であるが、同母兄憲方は摂関家との関係はうかがわれないが、光房は院とともに摂関家との間にも密接な関係を結んでいた。結果として皇嘉門院領が九条家領となったように、女院庁の構成員は忠通の家司源季兼の子季長のように、しだいに摂関家関係者が中心となっていったと思われる。

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