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2019年3月15日 (金)

持明院氏と女院分国3

  丹波守時代の通基は、長承三年八月一三日には法金剛院塔と経蔵の上棟に際しての鳥羽院と女院の御幸にも因幡守公通とともに供奉している。そして保延二年一〇月一五日には通基が造進した法金剛院五重塔の供養が行われた。同年一二月一三日に内大臣となった藤原頼長が各所を拝賀したが、女院への取次を行ったのが通基であり、別当の中心であった。
 保延六年(一一四〇)四月、公通に替わって因幡守に補任されたのは能登守から遷任した藤原季行であった。父敦兼は白河院、鳥羽院、待賢門院の別当である。季行の後任の能登守には通基の子通重が補任された。国司は初任で年齢は一〇代後半と思われ、父通基が知行国主であったと思われる。この時点で能登国は一四才である女院の娘統子内親王の分国とされたと思われる。後述のように保延五年初めに出雲守から安芸守に遷任した源光隆は、内親王の御所の造営に着手している。
 康治二年七月一一日には女院の第二皇女である前斎院統子内親王が新造された三条室町殿に渡御したが、内親王は女院とともに仁和寺から渡御した。同じ日に父鳥羽院は隣接する三条西洞院の崇德院の御所に御幸している。公卿と殿上人が供奉したが、その中心が職事大蔵卿通基、越中守源資賢、右兵衛権佐藤原憲方であった。内親王の御所は待賢門院の分国安芸国の国守源光隆が 二条富小路で造進に着手したが、光隆が養子となっており、旧屋の所有者であった藤原基隆後家との関係が悪化したために、場所を変更して造進したものである。
 源光隆は女院の別当の筆頭源能俊の子の晩年の子であったため、その将来を同じ女院の別当藤原基隆に託したのだろうが、年下の基隆が能俊より先に死亡したことで、関係に亀裂が生じた。光隆は、待賢門院女房で自らの補佐役である大舎人頭源家行の娘を妻としたのである。この康治二年の渡御の前から待賢門院の分国と庄園の一部を統子内親王分とする作業が行われていた。

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