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2019年3月15日 (金)

丹波守西園寺公通2

 話を公通に戻すと、大治三年六月に通季が死亡した時点で、丹波国は待賢門院の分国とされたのではないか。そのもとで大治五年一二月に長実が知行国主となることは可能である。美福門院の分国越前国では永暦元年(一一六〇)に国守藤原季能の父俊盛が奉行として庄園の免判に花押を加えていた。俊盛は天養元年(一一四三)から仁平二年(一一五二)にかけては女院分国越前の国守であった。女院と知行国主の関係の詳細は不明であるが、長実は永久五年に璋子が鳥羽天皇に入内した際には女御政所別当であり、元永二年六月一九日に顕仁(崇德)親王の家の政所別当でもあった。知行国主長実が死亡しても丹波守公通の地位に影響がなかったのは、丹波国が女院分国であったからではないか。保安元年正月に因幡国は藤原宗通の知行国となり、その養子時通が国守に補任されたが、七月に宗通は死亡した。しかし因幡守時通の地位には影響がなく、知行国主が実父長実になった。これも因幡国が白河院の分国であったためである。
 長承三年二月には公通と嫡子実宗等を産んだ女性の父藤原通基が相博し、通基が丹波守、一八才となった公通が因幡守に補任されている。これに伴い女院分国は因幡国に遷ったが、女院庁の別当の中心である通基は、女院の御願寺法金剛院五重塔の造営を行い、長承三年八月には塔の供養が行われている。女院分国と女院の有力近臣が国守ないしは知行国主である国の識別は難しいが、公通の父通季並びに公通を聟とした長実が死亡しても丹波守として公通の地位に変化がなかった背景を検討した。

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